二人の教皇



http://www.la-croix.com/Urbi-et-Orbi/Vatican/Benoit-XVI-soutient-ligne-misericorde-voulue-pape-Francois-2016-03-16-1200747089

この二人がどれほど支え合っているか。それはけっして疑いえないし、長年の信頼関係も強い。けれども2013年にベネディクト16世が引退し、フランシスコ教皇になって3年、不思議に感じるカトリック教会のこの風通しの良さはなんだろう。いつくしみの聖年、福音の喜び、ラウダト・シ、愛の喜び・・・「喜び」に基礎づけられたフランシスコ教皇の語られるメッセージに誰でもアクセスできる。
久しぶりにベネディクト16世の本を読んでいて、それはそれで心熱くなる。しかも今、日本では憲法改正が争点になっていて、このまま参議院自民党議席3分の2以上になった場合、その行く末に何が待っているんだろうと考えると、ベネディクトの堅固なメッセージに背筋が伸びる思いになる。キリスト者が言葉と行いで示すのは「真理に根ざす愛」。真理とは、神がこの世に来たこと、そして神が愛によってこの世をずっと導いていくということ。人類はみな、この世で生きて、死んだ、イエス・キリストの姿を見て、彼に聞くことだ、愛とは何かを。キリスト者はその真理を知っていると同時に、いつも、真理に浄められなければならない。真理に根ざさない愛はなく、愛に根ざさない真理はない。
この断言的な言葉づかいに自分の心のうちにある葛藤をぶつけてみる。
安心する。そうだよね、そのとおりだって思う。なにか自分自身が強くなった気持ちになる。そして、みんなも分かったらいいのにって思う。しかし、わたしは変わらない。どこもなにも変わっていない。
フランシスコの形容詞的な言葉づかいは、逆に、自分は大丈夫か?って問いたくなる。喜んでいるか、愛しているか、ゆるしているか・・・わたしはほんとうにイエスに従っているか、と。不安ではないが、安心してはいられない。キリスト者であることになんの保障もないのだ。いや、それ以上にキリスト者であるなら、あやまらなければならない、もっとゆるしを乞うべきだと。

「キリスト教徒は同性愛者に謝罪するべき」、ローマ法王 写真4枚 国際ニュース:AFPBB News

さらに法王は「そうした状態(同性愛)の人が善良な人物で、神を求めているとしたら、その人を裁く資格が私たちにあるだろうか」と付け加えた。

ベネディクトとフランシスコ。この二人は、二人で一人のような存在だ・・・

トラディショナル・ミサ

RORATE CÆLI: For the record: Papal Announcement of New Cardinals


今回枢機卿に任命された15名のうちのお一人。メキシコから…

実はトラディショナル・ミサなるもの、与ったことがない(^^;)

やっぱり司祭の祭服の背中の刺繍がすごいもんだな(現在この方は司教)。じゃないと恰好にならないんだろうね。背中をずっと会衆に向けているわけだから。これも文化。わたしにとってのミサは「ともに捧げる」というアイデアしかないもんだから、21世紀の今(写真は2013)こういう写真を見ると逆に興味がわいてきて一度「見てみたい」という気持ちになる。

・・・と、ここでわたしの心へ注目は「見てみたい」という好奇心。けっして「与ってみたい」という気持ちが起らないことだ。それはわたしだから。そういう歴史をもつわたしだからだ…

経験のなかの信仰

こころをよむ 物語のなかの宗教 (NHKシリーズ)

こころをよむ 物語のなかの宗教 (NHKシリーズ)

「物語のなかの宗教」というテーマを見て、これだ!と思った。「宗教のなかの物語」じゃない。さっそく本を購入、今日はその第一回の日だったのだけれど、録音を失敗してしまい視聴できなかった。残念… でも、第一回めの文章を拝読しとても心が温かくなった。心が動いていることがわかる。物語を読んでいると心が動くんだよな。その心の動きが自分のなかのどこかに響いてきて、共鳴して、何かを思いだしたり、場面を想像したり、新しいことばが浮かんで来たり、そういうものが引き起こされるのが物語なんだな。

そういった物語のはたらきの中に、そのはたらき《自体》と言っていいのかな、はたらきの《中》って言うとはたらきが別にあるような感じがするからね、つまり、心が動かされるはたらきそのものは、実は、《宗教》がずっと担ってきたはたらきなんであって、そのはたらきは、いわゆる《宗教団体》だけが所持できるような代物ではなくって、誰でもアクセスできるし、誰でも受けとれるというようなものなんだってことなんだろうね。

それはほんとうにそうなんですよね。

なんか、特権みたいに宗教団体の信仰者だけがアクセスできる物語だったら、それは排他的だし、拝外的なコードだ。そうなったら、物語でもなんでもないわけだ。

けれども、けっこうこの話しというのは誰もが「そうだそうだ」って言うと思うけれど、意外に、信仰言説、あるいは聖画のようなものも「自分のもの」的な使い方が多い。つまり「宗教のなかの物語」的な使い方が多いんだ。

フランスにいた時、宗教芸術専門のシスターがいて、徹底的に聖書の使用や聖画の使用を注意していた。もしや「物・扱い」していないか?自分の主張の証拠のように、あるいは印籠のように使ってはいないか?けっこうセンシティブな反応をしてくれた。《物語》であるためには、万民に「解釈自由」な余地を残しておかなければ、そのような余地が残せる提示でなければ、物語を物語として扱っていないことになるってわけだ。歴史的共存の地平に立つということは、徹底的に、他者のことを思い計らなければならないんだ。自分勝手にはなれないよ。

「物語のなかの宗教」はすなわち「経験のなかの信仰」に相当するんだと思う。それは相対主義なんですか?という質問がすぐに来るだろう。それに対してはノーと言いたい。なぜなら、宗教を行為する《わたし》、信仰行為をする《わたし》は、みんなのものである物語に包まれたとしても、誰もがするだろう経験のなかにいたとしても、けっして他の誰でもない《わたし》を保ち続けることができるのだから。それこそ逆に、物語につまっている宗教のはたらきの《おかげで》《わたし自身》を保ち続けることができるんだ。さまざまな経験につまっている信仰のはたらきのおかげで、わたしをわたしとすることができる。そこは共有しないともったいない。

…あと、もう一つ思ったのだけど、宗教学に取組んでおられる方々の《実存的な宗教性》というか、なんか、もしかして、最近、そこは遠慮なく表現されてきている傾向にある?宗教学という学問と神学の間の境界がこの100年200年の時間の中でものすごい歩み寄っているのではないか?という感じがしているけれど、どうでしょう?感覚でしかないのだけれど、20年前の感じだったら、もう少し、宗教学はニュートラルというか、クール?というイメージだったんだけど、最近の宗教学、宗教社会学の方の講演会などうかがうと、お〜熱い!と思ってしまう、のは私だけ?

宿屋


IMAへの投稿

「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったから」

 クリスマスが近づくとやっぱり嬉しくなる。街中がやさしい色で飾られて、光が灯り、冬の寒さをかき消すように目を楽しませてくれるものでいっぱいになるからだ。「クリスマスはイエス・キリストの誕生を祝う日なのですよ」って、カトリック学校関係者らは学生たちに何度も何度もお話しする。聖劇をみんなで演じてみたり、馬小屋を飾ってみたりして、マリア、ヨゼフ、そして赤ん坊イエスの誕生の温かい家族の情景を描いて、これこそクリスマスなのです、という説明する。わたしも数えきれないほどクリスマスはイエス・キリストの誕生の日ですよって語ってきた。楽しくって嬉しい、でも、それだけじゃないんですという言い方で語ってきたように思う。
 もちろん、そうしか言えない気持ちもどこかにあるのだけれど、今年は、なにか、自分自身の心に見えている情景が違っているような気がして、クリスマスは楽しくって嬉しい、でも、それだけじゃないとは言っていない。わたしは、今年、目の前に飼い葉桶しか見えていない。飼い葉桶―――家畜が食べる飼料で充たされている桶だ。そこには牛や馬が貪り喰うために入れられた乾燥させた牧草や雑穀などが入り混じって入っていただろう。我れ先にといって鼻先をつっこみ貪り喰う牛や馬、羊の臭いが染み付いていたに違いない。聖書記者は、飼い葉桶を意図的に世の描写に使用している。イエスの時代、世の中はきっと飼い葉桶のようなものだったんだ。他の誰よりも先に喰うものにありつけるよう、強者がこぞって鼻先をつっこんでいた世界。富を欲望のままに貪り喰う、そんな臭いのする世界。わたしは今年、クリスマスを説明するために一生懸命飼い葉桶を描写し、語っている。なぜかそうせざるを得ない衝動にかられている。
 受肉―――神さまがこの世で生まれる。
 天の彼方にいます方が、この世のまっただ中で人間のからだとなって、その心臓の脈でこの世を生き、飼い葉桶に染みついた臭いの空気を呼吸し、愛というのはこういうことだとその口で、その手で、徹底的に人びとに触れていった、そういう受肉の秘義を、今年もたくさんの方々が一緒に生きておられると思う。飼い葉桶というこの世の真ん中で、生まれられた神さまとともに恊働する人たちこそ、マリアであり、ヨゼフであり、赤ん坊イエスの姿なのではないだろうか。だから、そうなるとやっぱり、宿屋じゃないし、宿屋は彼らの泊まる場所ではなかったんだと分かる。
 この世に生まれる神さまが真に働かれるのは宿屋じゃない。そして、「神さま、わたしのところに来てください」と呼び、叫ぶとき、わたしが宿屋じゃなくてもいい。わたし自身が欲望にまみれた飼い葉桶だとしても、そこに神さまをお迎えする。ここに、生まれてくださるのだから。そして、わたしも無理して宿屋に行かなくていい。わたしも飼い葉桶に行って、神さまがなさっておられるその働きを、わたしのこの目で確認する。飼い葉桶をもっともっと描写し続けると思う。    (IMAへの投稿文書 はらけいこ)

ヴァチカン聖ペトロ大聖堂クリスマス夜半ミサ!


詩編歌手美しい〜
アレルヤもきれい〜。福音歌ってます〜
オルガンがかっこいい♪モーツァルトのミサ曲Christus natus est美しい!

グレゴリオ聖歌の指揮がダイナミック!アルシス、テイジス♪

フランシスコ教皇のミサ説教は中央協HPにアップされていて、ビデオの説教の姿を見ながら、これを読むと感慨深い…

カトリック中央協議会のサイトにあるフランシスコの説教日本語
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/francis/msg0174.htm


「それでも神は、ご自分の姿にかたどって造られた人間に希望を置き、待っておられます。神はあまりにも長い間、待っておられるので、あきらめてしまうのではないかと思われるほどです。しかし、神があきらめることはありません。ご自身を否定することはないからです(二テモテ2・13参照)。したがって、神は人々や諸民族の腐敗を前にしても、忍耐強く待ち続けておられます。」とか、

「『しるし』とは、その夜、神がこの上なく身を低くされたことであり、また、神が愛をもってわたしたちの弱さ、苦しみ、不安、欲望、限界を引き受けてくださったことに他なりません。すべての人が待ち望み、心の底から求めているのは、まさに神の優しさです。神は愛に満ちたまなざしでわたしたちをご覧になり、わたしたちの貧しさを受け入れます。神はわたしたちの弱さを愛しておられるのです。」とか、

「この光を見たのは、神の贈り物を受けることに心を開いている素朴な人々でした。しかし、横柄で高慢な人、自分の私利私欲のために法を定めた人、また他者に心を閉ざした人は、その光を見ませんでした。飼い葉桶に目を向け、聖母マリアに『わたしたちにイエスを見せてください』と祈り求めましょう。」という言葉が、

ずしんとくる…

22日のローマ高官に向けてのメッセージと合わせると、もっと深められる。

見てて思ったんだけど、聖ペトロ大聖堂の祭壇って、4畳半くらいあるんじゃないかな?ものすごく大きい。祭壇布は一枚布なんだろうか?

退堂で「来れ、友よ」の大合唱のなか、フランシスコ教皇が幼子イエスを抱いて馬小屋のところまで抱いて歩いている場面、涙…

この番組、フランスのKTOが生放送でやってたわけだけど、最後に、同僚の名前を呼んで、クリスマスおめでとう、言っている。兄弟的な感じがいいねえ…

15の病

朝日新聞夕刊記事の「15の病」、けっこうやわらかく訳してくださってたみたい…
フランス語に訳されたものを日本語直訳してみると…

(1)《不死》《馴れ合い》、あるいは自らを《不可欠》と思い込む人の病
(2)《マルタリズム(マルタのような)》、あるいは過度な働きの病
(3)精神と霊性の《石化》という病
(4)過度な計画主義と機能主義という病
(5)間違った協調関係の病
(6)《霊的認知症》(Alwheimer spirituelle)という病
(7)ライバル意識や虚栄心の病
(8)実存的スキゾフレニア(la shizophrénie existentielle)という病
(9)不満、悪口、うわさ話の病
(10)長上を神格化する病
(11)他者に無関心を装う病
(12)陰鬱な顔をする病
(13)財産をためこむ病
(14)内輪に閉じこもる病
(15)社交好き、自己宣伝に走る病

ラ・クロア紙
http://www.la-croix.com/Religion/Actualite/Pape-Francois-le-texte-integral-du-discours-des-15-maladies-2014-12-24-1284566

こんなみんなの前でねえ…

http://www.lefigaro.fr/actualite-france/2014/12/22/01016-20141222ARTFIG00332-l-attaque-au-vitriol-de-francois-contre-la-curie-romaine.php

クリスマスのメッセージ

メリー・クリスマス★

しみじみしているクリスマスだなあ…

論文追い込みをしているので、とってもパーソナルなクリスマスを過ごさせていただいております。そんななかでの本日の夕刊ニュース!ミサに行く前に読んで、メアクルパと思って出かけました。写真は去年のクリスマスのものコピペです、あしからず。でも、クリスマスメッセージはまさしく今年のもの。新鮮!すごい!


本日、朝日新聞夕刊の記事

「自らを批判し、改善できない法王庁バチカン)は病気だ」。ローマ・カトリック教会のフランシスコ法王は22日、枢機卿らに向けたクリスマスのあいさつで、バチカン官僚主義的で内向きな体質を批判した。
 例年ならば一年の労をねぎらわれる場で、トップから強い「内部批判」が飛び出した。法王庁の問題点を「陰口というテロ」や「物欲」「虚飾に走る」など、15もの「病気」に例えて改善を促した。
 法王はまた「聖職者とは飛行機のようなものだ」と語りかけた。「ニュースになるのは落ちた時だけだ。だが一人が落ちれば、教会全体が傷つく」と述べた。
 昨年3月に就任したフランシスコ法王は機密文書の流出や、教会の資産を運用する機関のマネーロンダリング資金洗浄)問題など、醜聞が噴出した法王庁の改革に取り組んでいる。信者からは高い人気を得るが、法王庁内には倹約思考への不満もあるとされる。(ローマ=石田博士)
 ■フランシスコ法王が語った「バチカンが患う15の病気」 
 (1)自分たちが不滅で不可欠だという感覚 「自らを批判し改革できない法王庁は病気だ」
 (2)働き過ぎ 「仕事をしたら休むことが必要」
 (3)心が石のように頑固になること 「泣いている人と共に泣き、喜ぶ人と共に喜ぶ。人間的な繊細さを失うのは危ない」
 (4)計画しすぎること 「計画を変更しない方が楽かもしれないが、神のみ心に従う自由を失ってはいけない」
 (5)調和なく動くこと 「和が乱れれば、雑音が混じる楽団のようになる」
 (6)妄執や誤った考えにとらわれること
 (7)張り合ったり虚飾に走ったりすること
 (8)現実に向き合わないこと 「聖職者の役割を放棄して官僚主義的な仕事に収まり、自分たちだけの別世界を作る」
 (9)陰口を言うこと 「はっきり物の言えない臆病者の病気だ。『陰口というテロに警戒を」
(10)上司の神格化 「出世第一主義と日和見主義の餌食だ」
(11)他者への無関心
(12)お葬式のような深刻な顔 「伝道者は喜びを伝えなければならない」
(13)物欲
(14)閉じられた「内輪」を優先すること
(15)世俗的な利益を求め、見えを張ること

一言、感想…

バチカンとは何か?バチカンの聖ペトロ大聖堂の中に一歩入れば、まあ、言わずと知れた豪華絢爛、ギラギラした装飾物に彩られた《世界》に包まれるわけで、きらびやかだということだけではなく、歴史というか、それだけのことをしてきたんですよねえ、というか、立派なもんだなあ、みたいな、とにかく圧倒されつつ、そういう表層的な印象をもつわけだけれど、あの聖ペトロ大聖堂イコール果たしてバチカンか?と言えば、そういうわけでもないだろう。あの奥に拡がるさまざまな「省」で、Institutionの権化みたいな、いわゆる《巨大宗教団体》を取り仕切っているわけだから、ただ、豪華絢爛なことばっかりやっているわけではないんだろう、と思っていた。

とはいえ、何をやっておられるのかは、一般信徒のわたしのような者には計り知れない。その奥に拡がる世界について、トップの教皇さまが、ぐぐっと食い込んだ発言をされる。「バチカンが患う15の病」、おお〜、バチカンは患っているんだ!そうか!とわたしは気づく。教皇さまの思惑というか、ポリティークでしょうか、きっと、《教育的配慮》があるに違いない!と、プラクティシャンの端くれのような者には、わくわく、ドキドキするわけだ。実際、バチカンで働く方々が、どのようなお仕事をしておられるか?そういうことってあまり明らかにされていない(各省から発布されるドキュメントは見ることができてもofバチカンサイト)。そういう具体的な働きが明らかにされていない中での「患う病気」発言となると、明らかに、心情的な次元に訴えかけられた発言ということになるんじゃないか。


この1〜15までの《バチカンが患っている病》への指摘は、わたし自身にも言われているように聞こえる。


わたし自身もこのくらいの病は患っている。「(2)働き過ぎ 「仕事をしたら休むことが必要」」おっしゃるとおり!「(4)計画しすぎること 「計画を変更しない方が楽かもしれないが、神のみ心に従う自由を失ってはいけない」」ほんとうにそうですよ。どれもこれも納得だ・・・。これを読んでいると、たぶん、バチカンの中で働いている人たちも、くすっと笑ってしまうような話しなのではないかと思えてくる。教皇さまのユーモアのセンスと、深い愛情を感じる。《体質の批判》なのだけれど、愛を感じる。体質の批判をするために、お葬式のような深刻な顔してちゃ、ダメだよ〜っていう。大真面目なバチカンの高官にむかって、「あんたね、お葬式のような深刻な顔してちゃ、ダメよダメダメ〜」って言う教皇さまって、いままでいたかなあって思う。ほんと、おどろき。

実際、1〜15のこの指摘ね、机の前に貼っておこうかと思ってしまう。バチカンの高官たちも、こういうふうに言われて、どうなんでしょうね。それこそ、大真面目に、ちきしょーとか思っている人いるんでしょうか?それとも、言われちゃったな、あはは、みたいな感じで受取っているんでしょうか。それとも、真剣に、このままじゃ、ダメだーと思って、回心しようと思ったり?しかし、大真面目に、ちきしょーとか思って、教皇さまに向かって、悪口とか、陰口とか、足ひっぱりみたいなことしたら、それこそ、『陰口というテロに警戒を」を己がやっていることになるんだから、ドツボです。

なので、1〜15のこのメッセージ、いいです。クリスマスにほんもののメッセージをくださった。一つ一つ読んで、心に聞いて、考えて、「どういうことだろ?」って思い直して、バチカンにお務めしているって、どういうことなんだろ、とか。根源的なこと考えたり。実存的になったり。いったい、わたしって誰?みたいな。「(14)閉じられた「内輪」を優先すること」それは、病気ってことなんだね!とか…


とにかく…メリークリスマス。これから光が大きくなっていく季節。光のなかで、大きなお父さんが笑顔できびしく叱ってくれる。

とはいえ、事はそんなに軽いもんじゃないらしい…

http://www.la-croix.com/Religion/Actualite/Pape-Francois-le-texte-integral-du-discours-des-15-maladies-2014-12-24-1284566

めっちゃ、反省モード…