パロのみーちゃん
このかわいいぬいぐるみは、人工知能を持ったメンタルコミットロボット「パロ」。口からさしているのは「充電器」。まるでミルク飲みアザラシちゃんみたいでしょ?実家では「みーちゃん」と呼ばれている。パロのみーちゃんは、人間が触ったり、話しかけたりするのに反応し、「みー、みー」と鳴く。ママさんが認知症を患って、いろんな意味で困難な生活を余儀なくされているんだけれど、一緒に住んでいるパパさんが、パロの存在を知り、少しでもママさんの認知症の改善になればと思い、思い切って購入したものだ。まずはこの行為にはパパさんのママさんに対する「愛の溢れ」があり、子からしてみたら、それは素晴らしいことだと誉め称える。しかし、パロちゃんに会えるのを楽しみにして、実家に行ってみると、パロちゃんは机の上でちんまりとしていた。あまりママさんに触らせていないようだった。おそらく「そんなことをしていいのか?」とパパさんは思っただろう。パロのみーちゃんを抱きかかえ、ふつうに、猫や犬をなでるようにしてみた。すると、みーちゃんは、今までになく「喜んだ」。
メンタルコミットロボットというのは、セラピーのために働くロボなのだ。
メンタルコミットロボット「パロ」はギネスブック(2002年)にも認定されている「世界でもっともセラピー効果があるロボット」です。姿はタテゴトアザラシの赤ちゃんで、多数のセンサーや人工知能の働きによって、人間の呼びかけに反応し、抱きかかえると喜んだりするほか、人間の五感を刺激する豊かな感情表現や動物らしい行動をし、人を和ませ、心を癒します。
アニマル・セラピーと同様のセラピー効果を備えるほかロボットだからこその多くの利点があり、アメリカではFDA(食品医薬品局)より医療機器として承認されており、多くの医療施設や介護福祉施設などに採用、自閉症の子どもたちや認知症の高齢者などのセラピーに効果を上げ、高い評価を得ています。日本でもパロのセラピー効果が注目され、現在、介護福祉分野での導入が進んでいます。http://www.daiwahouse.co.jp/robot/paro/products/about.html
それにしてもすごいもんだ。
みーちゃんは、こちらの心が「あたかも」分かっているかのような反応をする。犬や猫とじゃれ遊んだりする時、やっぱり「あたかも」分かっているかのような感じがするものだ。人間が人間と話したりして確認する「ことば」で分かるというような「分かる」感じではなくて、なにかしら…分かっているんじゃないこの子?みたいな感じの線。「ことば」なしのコミュニケーションって、実はこんなふうに「あたかも」分かった感じどまりのものなのかもしれない。説は色々あるが、バーバル・コミュニケーションと、ノンバーバルでいけば、バーバル、つまり言語コミュニケーションはたったの7%で、あとのコミュニケーションは、ノンバーバル、つまり非言語だっていう。コミュニケーションの93%がノンバーバルということになると、やっぱり「あたかも」認識、ってけっこう重要なんだよね。アニマル・セラピーっていうのも、こういった93%の部分の回復っていうのかな、そこをなんとかケアしようと考えられたんだろう。
ママさんも、私のことを「ことば」で「けいこ」と認識することが難しい現状にあって、それでも、5時間以上一緒に過ごしていたら、最後は「けいちゃん」って言った。なんか、この時間を過ごしながら感じたんだけど、「ことば」を介さないコミュニケーションの充実の上にはじめて「ことば」が現れてくるんじゃないかって。認知症を患っているママさんは、独り言という言葉をずーっと発している。しかし、その言葉は他者とのコミュニケーションは生まない、独り言に留まっている。独り言だけ聞いていると、コミュニケーションしないものだから、こちら側としては不快で、孤独になる。孤独になるだけならいいが、憤慨まで起こってくる。そこで、一旦、自分の孤独や憤慨から距離を取り、ママさんの今のノンバーバルな次元というものに一緒に立ってみる。言葉はいらない。そこが「同調」という場だ。そうすると、コミュニケーションを生まない独り言が消えて行く。そして、コミュニケーションできる一言がよみがえる「けいちゃん」。とてもパラドキシカルなんだけどね。「ことば」はコミュニケーションのツールではあるけれど、「ことば」だけに頼っていたら実にコミュニケーションできなくなる。その辺のことを「わかっていらっしゃるな、人口知能」って感じのロボットづくり、すごいよね〜。しかもそれを、ケアに使っちゃおうとしているわけだから、言ってみれば「お薬」?保険効いてもいいんじゃないの?
ロボット同士のコミュニケーションなんだけれど、電気が続く限り、このコミュニケーションは終わらない。しかも、ロボット同士なので「異様」な感じがする。でも、これを見ていたら、不思議に「羨ましい」という気持ちが起きて来ないだろうか?単純でいいなあ〜みたいな気持ちにならないだろうか。
こちらの動画は実家でのみーちゃん:
https://www.facebook.com/video.php?v=10205179851524814&set=vb.1501115728&type=2&theater
秋の音楽
お、鈴虫。
あれあれ、コオロギ?
・・・なんて思っていたら、あっという間に秋。
涼しい風、陽が落ちて行くのが早い。
なんか、寂しくなる季節ね、人恋しくってねえ、なんて言われたもんだから
そうですね、わたしもです。あ、私だけじゃなかったんですね、って(笑
そんな秋の音楽。
- アーティスト: 坂本龍一
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寂しい時には、寂しい音楽を聴くといいんだよ。
寂しい時に、無理して明るい音楽を聴かなくったっていい。
おんなじ感情で触れてくれていたら、それでいいんだ。
しばらくすると、寂しさが光に満ちた寂しさになる。
否定じゃなくて徹底的に同調するってことが
どういうことか、教えてくれる。
坂本龍一、out of noise
洗濯機の中で洗われるならば?
もしも、洗濯機の中で、わたしが洗われるならば?と思ってたら。こんな写真がネット上にあった。大阪万博で公開された「人間全自動洗濯機」。
出典:http://japan.digitaldj-network.com/archives/51535499.html
なんでこんなこと考えたかっていうと、昨日の神父さんの説教での「エゴと神さまのみ旨がごちゃごちゃになってわかんなくなる現代の忙しさ」にも関係しているわけだけど、ごちゃごちゃになって、ぐちゃぐちゃになっている状態の中から、なにか「真なるもの」っていうのかな、それを「ほんもののわたし」でもいいし「ほんとうの経験」でもいいし「魂の叫び」とか、最終的には「神さまのみ旨」ということになるんだが、そういう「これだぜ!」っていうものが現れる以前は、神父さんが言っていたように「ごちゃごちゃになってわからない」わけで、そういう時っていうのは、動いているわけですよね。それって、洗濯機じゃないの?って思ったわけだ。
そこで「一旦、立ち止まって」というわけでしょ?
それって王道だよね。
祈りの王道ですよ。
でも、洗濯機の状態のすごいのは、動いていて、衣服から汚れが、界面活性剤、いわゆる《洗剤》によって抜け出していくわけですよ。動いているからこそ、界面活性剤はよく働くんでしょうし、衣服が真なるものになっていくために、洗濯機の場合は、動かなければならないわけだ。
まあ、ほどよい条件というかな。水だって、湯の方がいい綿とかね、ポリエステルともなるとあんまり熱い湯はだめだしね。界面の強い洗剤だと衣服が痛んだりしますからね。手洗いのものなんか、押し洗いとかふり洗いとか、つけておくだけでも(つまり、一旦立ち止まって)きれいになるものだってあるから。動けばいいって話しでもないんだがね…
自分が洗濯機の中に入るってこと考えたこと、誰でも一度はあると思うけど、40年前、考えたんでしょうね。まあ、それに似たようなデトックス的なものは21世紀に見られますが…結局、自分が洗濯機の中に入るというよりも、自分自身が洗濯機で、この洗濯機の中が「どうなっているか?」ってところに大問題があるんだね。「うわっ、実は、わたしって洗濯機なんじゃん?」みたいな気づきというのは、ルネッサンス期の自由意志発見みたいな話しなんじゃないか?と思ったりしてるわけです。できれば、洗濯機にデトックスしてもらえれば楽なんだけど、自分が洗濯機だってことになると、まずは、何を、どうして洗いましょうか?って話しから始めなきゃなんない。けっこう難儀な話しなんですね。
街角
久しぶりにホームページをいじってみたら自分のブログを書きたくなった。またもや一年ぶりになった…集中するために何か他のことが気になって、立ち上がったり、水やジュースを飲んだり、そんなことをするくらいなら、ブログでも書いて、キーボードを打つ癖でもつけたらいいんだな。向き合わなければならないのは、自分自身の内なる魂なのだから。
深呼吸をし、心を落ち着け、一旦、立ち止まってみる。
今夜のミサのお説教は、この「一旦、立ち止まってみる」という話しだったではないか?神さまのみ旨と、自分のエゴと、あまりの忙しさにその区別さえ見極めることが出来なくなってしまう。そういう時は「一旦、立ち止まってみる」ということだ。
ブログの前で、はてなの前で…
今年は2月にインド、3月にフランス、8月にケニア…と、実に三回も国外に出ている。大きなカメラは最近持って行かない。ただ、iPhoneで衝動にまかせて撮るだけだ。だいたい、その衝動的な「記憶に残しておきたい」という想いだけが浮遊して、写真を後から見ることはない。ブログで立ち止まったときに、一枚ずつ写真を取り出し、ちょこっと眺めてみようかな。
インド、コルカタの街角。
カレーを食べるためのアルミ製の皿を姉妹に買ってもらっているところ。毎回いただいたカレーはこの皿で食す。日本に帰って、これでカレーを食べたいなあって思ったんだな、私…
ケニアでも取っ手のついてないアルミ製の鍋が買いたいなあって思ったんだな、でも、そちらは買わなかった。日常の、どうってことのない、ありきたりなんだろうけど、私にはありきたりじゃないそういった「フツウの物」が大好き。
サンスルピス大聖堂
あの「ダビンチコード」で有名なサンスルピス。とうとう外壁工事が終わったらしい。思えば、このような美しいサンスルピスを見るのは初めてだ。ずーっとグレーの工事現場によくありげなカバーで覆われていたわけだから(初めて見たのは1997年)、はあ、こういうふうになっていたのか!と驚いた。
角みたいに立っている二つの塔のデザインは違う。右の方がなんかモダンな感じだ。中はもちろん18世紀のバロックまっただ中の建築物だが、この右側の塔のデザインはなんか未来派風な感じ。調べてみたいが、まったく時間なし。
←この写真は先週撮ったもの。今日は雨だもん。いやあもうなんにもできない。もちろん観光に来た訳ではないが、冗談ぬきで缶詰状態。
この前の日曜日にはミサにサンスルピスに行ったので内部を撮っておいた。奥の方で緑色の祭服を着ておられるのが神父さん。こんな感じ。→
さて、私が今滞在している場所では日々の祈りとして、毎朝、会議の前には我々の小さな聖堂でミサがあって、各地のシスターたちがちょっとした歌とか準備してくれて典礼が行われる。だいたいフランス語が多いが、朗読は、英語もスペイン語もある。8月6日は日本の、広島の日ということで日本語で第一朗読が読まれた。
ご変容の祝日だ。Transfiguration ルカ9章のモーセとエリヤと一緒に白く輝いたイエスの変容を見た弟子たちが、ここに小屋を建ててずっとあなたを(イエスを)仰ぎ続けましょうという場面がその日の福音なのだが、そこが広島の原爆の日だというこの皮肉に、キリスト教徒になって以来ずっと混乱しなければならないという重荷を感じて来た。まあ、今回もそうだ。毎年そうなんだけど。確か去年は広島にいた。広島の原爆ドームがやけに「かわいく」見えて、妙な平和観を感じた。
しかし、今回、ミサの中で、イエスの姿が変わったということと、私たち自身が変えられるという瞬間に焦点があてられた小さな説教があって、なにかしら、あの広島の時の、あの原爆の惨禍の中で起こったであろう変容そのものが(それを苦しみとか十字架と名付けるにはあまりにも遠すぎるーそこに居なかった者にはけっして分からない)まさしくイエスの出来事だったのではないかと、ほんとうに心から思った。広島を聖地と自分なりに言っては来たが、それを大声で言うのは恥ずかしいという思いもどこかしらあった。でも、今年、8月6日に、あれはイエスの出来事だったんだとほんとうにそう思ったというか、そう言うことに矛盾がなくなっていた。
パパさんはヒバクシャで、去年81歳になって初めて被爆証言をし、それが20分ほどのDVDになった。
それを先日、私の学生に見てもらった。彼らの反応が驚くほどまっすぐでありがたかったのだが、ただありがたくて、嬉しいというだけでなく、私自身、娘としての役割の一つを果たした気がした。まあ、親子のひいき目というのはある。でも、見せびらかしているということじゃなくて、自分自身の中での決着というか、そういう次元での役割を果たした感がある。
私には、私が育てられた私を取り巻く環境があって(つまり、私が受けたこと。誰もがそうだと思うが特別の)その環境を食べて、糧として、自分なりに「消化」し、それなりに成長したと思う。じゃあ、私を育て、私の糧となったものはいったい何だったのか?今までうまく表現しきれてなかった気がする。「原爆だから」というだけで、それ以上の話にならなかったものがあったし、それは今でもある。しかし、パパさんのこの証言で何かがほどけてきたというか…。この「証言」という「かたち」によってはっきりと示された時、目に見えなかった(が、しかし確かにあった)ものが、見えるようになってきたというか…。見えるというか、かたちが与えられるというか…。Trans-Figurer...
信仰について、「あなたがたに伝えたことは、わたしも受けたことだ」とパウロは言ったが、わたしが受けたことがいったい何だったのかをはっきり分からなければ、結局のところ、あなたがたにも伝えられないということになってしまわないか。
原爆だからっていうのは、どこか奥義だからっていうのに似ている。
心配しないで心にあることを語ってみたら、どうだろう。
分かり合えるのが目的じゃない。もっと信じる人になるために。