洗濯機の中で洗われるならば?

もしも、洗濯機の中で、わたしが洗われるならば?と思ってたら。こんな写真がネット上にあった。大阪万博で公開された「人間全自動洗濯機」。
出典:http://japan.digitaldj-network.com/archives/51535499.html

なんでこんなこと考えたかっていうと、昨日の神父さんの説教での「エゴと神さまのみ旨がごちゃごちゃになってわかんなくなる現代の忙しさ」にも関係しているわけだけど、ごちゃごちゃになって、ぐちゃぐちゃになっている状態の中から、なにか「真なるもの」っていうのかな、それを「ほんもののわたし」でもいいし「ほんとうの経験」でもいいし「魂の叫び」とか、最終的には「神さまのみ旨」ということになるんだが、そういう「これだぜ!」っていうものが現れる以前は、神父さんが言っていたように「ごちゃごちゃになってわからない」わけで、そういう時っていうのは、動いているわけですよね。それって、洗濯機じゃないの?って思ったわけだ。

そこで「一旦、立ち止まって」というわけでしょ?
それって王道だよね。
祈りの王道ですよ。

でも、洗濯機の状態のすごいのは、動いていて、衣服から汚れが、界面活性剤、いわゆる《洗剤》によって抜け出していくわけですよ。動いているからこそ、界面活性剤はよく働くんでしょうし、衣服が真なるものになっていくために、洗濯機の場合は、動かなければならないわけだ。
まあ、ほどよい条件というかな。水だって、湯の方がいい綿とかね、ポリエステルともなるとあんまり熱い湯はだめだしね。界面の強い洗剤だと衣服が痛んだりしますからね。手洗いのものなんか、押し洗いとかふり洗いとか、つけておくだけでも(つまり、一旦立ち止まって)きれいになるものだってあるから。動けばいいって話しでもないんだがね…

自分が洗濯機の中に入るってこと考えたこと、誰でも一度はあると思うけど、40年前、考えたんでしょうね。まあ、それに似たようなデトックス的なものは21世紀に見られますが…結局、自分が洗濯機の中に入るというよりも、自分自身が洗濯機で、この洗濯機の中が「どうなっているか?」ってところに大問題があるんだね。「うわっ、実は、わたしって洗濯機なんじゃん?」みたいな気づきというのは、ルネッサンス期の自由意志発見みたいな話しなんじゃないか?と思ったりしてるわけです。できれば、洗濯機にデトックスしてもらえれば楽なんだけど、自分が洗濯機だってことになると、まずは、何を、どうして洗いましょうか?って話しから始めなきゃなんない。けっこう難儀な話しなんですね。