宿屋


IMAへの投稿

「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったから」

 クリスマスが近づくとやっぱり嬉しくなる。街中がやさしい色で飾られて、光が灯り、冬の寒さをかき消すように目を楽しませてくれるものでいっぱいになるからだ。「クリスマスはイエス・キリストの誕生を祝う日なのですよ」って、カトリック学校関係者らは学生たちに何度も何度もお話しする。聖劇をみんなで演じてみたり、馬小屋を飾ってみたりして、マリア、ヨゼフ、そして赤ん坊イエスの誕生の温かい家族の情景を描いて、これこそクリスマスなのです、という説明する。わたしも数えきれないほどクリスマスはイエス・キリストの誕生の日ですよって語ってきた。楽しくって嬉しい、でも、それだけじゃないんですという言い方で語ってきたように思う。
 もちろん、そうしか言えない気持ちもどこかにあるのだけれど、今年は、なにか、自分自身の心に見えている情景が違っているような気がして、クリスマスは楽しくって嬉しい、でも、それだけじゃないとは言っていない。わたしは、今年、目の前に飼い葉桶しか見えていない。飼い葉桶―――家畜が食べる飼料で充たされている桶だ。そこには牛や馬が貪り喰うために入れられた乾燥させた牧草や雑穀などが入り混じって入っていただろう。我れ先にといって鼻先をつっこみ貪り喰う牛や馬、羊の臭いが染み付いていたに違いない。聖書記者は、飼い葉桶を意図的に世の描写に使用している。イエスの時代、世の中はきっと飼い葉桶のようなものだったんだ。他の誰よりも先に喰うものにありつけるよう、強者がこぞって鼻先をつっこんでいた世界。富を欲望のままに貪り喰う、そんな臭いのする世界。わたしは今年、クリスマスを説明するために一生懸命飼い葉桶を描写し、語っている。なぜかそうせざるを得ない衝動にかられている。
 受肉―――神さまがこの世で生まれる。
 天の彼方にいます方が、この世のまっただ中で人間のからだとなって、その心臓の脈でこの世を生き、飼い葉桶に染みついた臭いの空気を呼吸し、愛というのはこういうことだとその口で、その手で、徹底的に人びとに触れていった、そういう受肉の秘義を、今年もたくさんの方々が一緒に生きておられると思う。飼い葉桶というこの世の真ん中で、生まれられた神さまとともに恊働する人たちこそ、マリアであり、ヨゼフであり、赤ん坊イエスの姿なのではないだろうか。だから、そうなるとやっぱり、宿屋じゃないし、宿屋は彼らの泊まる場所ではなかったんだと分かる。
 この世に生まれる神さまが真に働かれるのは宿屋じゃない。そして、「神さま、わたしのところに来てください」と呼び、叫ぶとき、わたしが宿屋じゃなくてもいい。わたし自身が欲望にまみれた飼い葉桶だとしても、そこに神さまをお迎えする。ここに、生まれてくださるのだから。そして、わたしも無理して宿屋に行かなくていい。わたしも飼い葉桶に行って、神さまがなさっておられるその働きを、わたしのこの目で確認する。飼い葉桶をもっともっと描写し続けると思う。    (IMAへの投稿文書 はらけいこ)