経験のなかの信仰

こころをよむ 物語のなかの宗教 (NHKシリーズ)

こころをよむ 物語のなかの宗教 (NHKシリーズ)

「物語のなかの宗教」というテーマを見て、これだ!と思った。「宗教のなかの物語」じゃない。さっそく本を購入、今日はその第一回の日だったのだけれど、録音を失敗してしまい視聴できなかった。残念… でも、第一回めの文章を拝読しとても心が温かくなった。心が動いていることがわかる。物語を読んでいると心が動くんだよな。その心の動きが自分のなかのどこかに響いてきて、共鳴して、何かを思いだしたり、場面を想像したり、新しいことばが浮かんで来たり、そういうものが引き起こされるのが物語なんだな。

そういった物語のはたらきの中に、そのはたらき《自体》と言っていいのかな、はたらきの《中》って言うとはたらきが別にあるような感じがするからね、つまり、心が動かされるはたらきそのものは、実は、《宗教》がずっと担ってきたはたらきなんであって、そのはたらきは、いわゆる《宗教団体》だけが所持できるような代物ではなくって、誰でもアクセスできるし、誰でも受けとれるというようなものなんだってことなんだろうね。

それはほんとうにそうなんですよね。

なんか、特権みたいに宗教団体の信仰者だけがアクセスできる物語だったら、それは排他的だし、拝外的なコードだ。そうなったら、物語でもなんでもないわけだ。

けれども、けっこうこの話しというのは誰もが「そうだそうだ」って言うと思うけれど、意外に、信仰言説、あるいは聖画のようなものも「自分のもの」的な使い方が多い。つまり「宗教のなかの物語」的な使い方が多いんだ。

フランスにいた時、宗教芸術専門のシスターがいて、徹底的に聖書の使用や聖画の使用を注意していた。もしや「物・扱い」していないか?自分の主張の証拠のように、あるいは印籠のように使ってはいないか?けっこうセンシティブな反応をしてくれた。《物語》であるためには、万民に「解釈自由」な余地を残しておかなければ、そのような余地が残せる提示でなければ、物語を物語として扱っていないことになるってわけだ。歴史的共存の地平に立つということは、徹底的に、他者のことを思い計らなければならないんだ。自分勝手にはなれないよ。

「物語のなかの宗教」はすなわち「経験のなかの信仰」に相当するんだと思う。それは相対主義なんですか?という質問がすぐに来るだろう。それに対してはノーと言いたい。なぜなら、宗教を行為する《わたし》、信仰行為をする《わたし》は、みんなのものである物語に包まれたとしても、誰もがするだろう経験のなかにいたとしても、けっして他の誰でもない《わたし》を保ち続けることができるのだから。それこそ逆に、物語につまっている宗教のはたらきの《おかげで》《わたし自身》を保ち続けることができるんだ。さまざまな経験につまっている信仰のはたらきのおかげで、わたしをわたしとすることができる。そこは共有しないともったいない。

…あと、もう一つ思ったのだけど、宗教学に取組んでおられる方々の《実存的な宗教性》というか、なんか、もしかして、最近、そこは遠慮なく表現されてきている傾向にある?宗教学という学問と神学の間の境界がこの100年200年の時間の中でものすごい歩み寄っているのではないか?という感じがしているけれど、どうでしょう?感覚でしかないのだけれど、20年前の感じだったら、もう少し、宗教学はニュートラルというか、クール?というイメージだったんだけど、最近の宗教学、宗教社会学の方の講演会などうかがうと、お〜熱い!と思ってしまう、のは私だけ?