クリスマス

貧しさの中で、言が生まれる


カラヴァッジョ:羊飼いたちの礼拝


今年も12月24日が来て、クリスマスの夜半ミサにあずかり、「おめでとう!」と言ってご挨拶し、寒空の下、足早に家に帰ってココアを飲み、甘いパンを食べ、しばらく皆で歓談し、あぁ、クリスマスが来て良かったって思う。
クリスマスの前夜はなんだか落ち着かなくて、どうでもいいことを心配したり、部屋の掃除をしたり、いらいらしたり、こんなことじゃだめだと言ってみたり、静かにしたり、自分でなんだかんだと努力をしながら、気持ちを整えてみるんだけれど、なんか、クリスマスが来ると、そういう、自分の努力みたいなものがふっきれて、ただ、肩の力がぬけるというか、ほっとするというか・・・・
不思議なもんだな、小さなイエスさまにたすけられる日。
今日は上智大学の講堂のミサに与って(7年ぶり!)、いろんなことを思い出したり、しみじみしたりした。ミサの後も、いろんな人に久しぶりに出会って、けっこう月日がたってるなって思った。パリで会ったことのあるCさんとか、Yさんとか若い方々に会って、まっすぐ背筋が伸びてて、気持ちいいなって思った。Cさんにはこのブログも読んでくださっているということで、感謝!
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午後のニュースで衝撃的だった、少年が自動車を海に投げ捨てたという・・・あの事件。テレビにはプカプカと海に浮かぶ自動車が映っていた。
そもそも自動車を海に投げ捨てるという行為が奇異だ。奇異というだけじゃなくて不吉ささえも感じる。人間の計り知れない闇が現れ出ているような。
アイスクリームのプラスチック袋や空き缶を捨てるように、自動車を海に投げ捨てるということか。いや、空き缶を捨てるのとは訳が違うんだろうな。罪を犯したことに使用したブツを捨てるという感じに近いか。
自動車を海に捨てた少年たちにとって「手もとのもの」って何だろう。(自動車を捨てた)彼らにとって「もの」とは何だろう。彼らは彼ら自身の周辺にある「もの」とどんな暮らしをしているのだろう。
加藤周一さんが秋葉原の事件について「分からないでもない」「天から降ってきたことではない」「地上に素因はある」と言われていたように、この事件も何か「もの」と「人間」との関係について象徴的に警告を発している事件のような気がしてならない。私たちは何を捨て、何を捨てざるべきかの判断もできなくなってしまったほどに、ものを持ちすぎてしまった。このような「もの・過剰」の土壌があって起こりうる少年たちの失態。・・・思うに、「もの」の過剰さは人間を違った生き物にしてしまうような気がする。
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カラヴァッジョの「羊飼いたちの礼拝」。羊飼いたちが膝をおり、腰をかがめて、イエスに向かって集中している。この空間には捨てるものはなにもない。何もない、貧しい、暗い、そこに、ただ、生まれたばかりの「うごめく」「小さな」「人間」に向かって、皆が低くなっている。
マリアは疲れて眠っている。
疲れたこの女に象徴される世の、ある意味での終焉、そして休息。
遅くはない、ちゃんと見つめることだ。
身をかがめて・・・