祈る木 ①

karpos2005-12-19



クリスマスが来る。
来るというくらいだからまだ来ていない。
だから、待っている。
毎年、同じ時期になぜ待つのか。
同じ物語を繰り返し聞き、
同じ登場人物を見る。
羊飼い、天使、三人の博士、ヨゼフ、マリア、ヨハネ
エリザベト、ザカリア。
泊まる宿がなく馬小屋飼い葉桶に宿る。
そこにいる動物羊飼いの羊。
登場人物の一人一人、一匹一匹を見、その情景の匂いまで嗅ぐ。
肌触りとか、
空気の味まで研ぎ澄ましてみる。
物語のなかにわたしも登場人物として登場する。
こんなふうにして、祈って待つ。


待っているこの日々を、
「祈る木」になって待ってみようと思う。
ミッシェル・ド・セルトーを少しずつ読んでみる。

Michel de Certeau, La faiblesse de croire,paris,seuil,1987
1. L'homme en priere,《cet arbre de gestes》
ミッシェル・ド・セルト「信じるという脆さ」1.祈りのうちにある人「所作というこの木」

祈りは、聖なる空間を生む。たとえば、古代キリスト者、修道士たちの「念祷の環」(inclusio in circulo)。インドの最初のキリスト者は、環状の祈りの輪(mandala)にて祈りに招き入れられたし、教会においても、信仰する者たちは祭壇のまわりに集められる。また、修道院の小室は、すべての機能が「中央」に集束されるようできている。祈りは、所作とともにこれら空間をつくる。この所作は、一つの場所に空間的次元を与え、人間に宗教的な「方向性」を与える。祈りは、祝福されるべき、聖別されるべき対象として、それぞれに空間を置く。これら対象は、空間の沈黙をたどって、意向という言語となる。さらに言えることは、――しかし、これ以上多くは言わないが――念祷のなかでは、感情が、ある地形図を成しているということである。祈りは、心理的な生の様相であり、またその表象をも扱っている。だから、祈りは、そのようなものによって、また多くの霊的内面性をまとめ記した(報告書のような)もののおかげで、愛の冒険によって描かれた「優しい人の地図」に類似した「一枚の地図」を作図できるのである。


祈りは、空間により画一を区切りながら、固有の場と、明確な態度をとる。その毅然とした決意に驚かされる。しかし、手を上げ祈る人は、彼がそうだからと言って、必ずしも、神はすべてであると認めているわけではないのではないか?あるいは、礼拝として限定をすることは、神の要求と人間の応答の範囲を実は個人の所有に割り引いて、祈りの空間としての意図を否定しているのではないか?手を上げ祈る人は、一つの所作に固定されているが、それはすなわち硬直麻痺しているということではないか?(このような問いが投げられる)。とはいえ、その意向において、普遍的であろうものは、特徴的な形態のもとでしか現われない。そういう視点において、祈りは、パラドクサルである。しかし実に祈りの行為がパラドックスの意味を明らかにする。すなわち所作は精神(心)なのである。もしも、祈りが、神に出会うことを憧れているなら、この出会いはいつも人間の地上に、人間のからだとその魂の交差するところにあるはずである。
Michel de Certeau, La faiblesse de croire, paris, seuil, 1987, p.31


しばらく続けてみようと思う。「祈りは聖なる空間を生む」。このフレーズにびっくりするのは「聖なる空間の中に入って祈る」の逆だということ。人間の祈るところに、場が生成する。その場は聖だと言っている。祈るところ、そこが神との出会いの場になるということ。