神の啓示の概念


沢田和夫「神の啓示の概念―特に第二バチカン公会議による―」『カトリック神学』昭和42年1967年、6月(上智大学神学会)

(トリエントから第一バチカン公会議への神学思想史を概観した後)、Ⅱ第二バチカン公会議における『啓示憲章』(中略)1962年の会議には大きくいって二つの思潮の対立があらわれた。一つはキリストと救われるべき人々を中心に考える考え方であり、他の一つは反プロテスタント論争の視点に立って浮き彫りにされた諸真理体系を中心とするものであった。前者はなお模索状態にあり、後者は神学教科書によって練磨された論理と明解さを持つものであった。頭書の議案自体はこの後者の傾向に属したものであったが、その後、議案は書き改められ、1964年のいわゆる第三会期に提示された議案が1965年の憲章の基礎になったものである。
 憲章はその「序」において啓示への態度と啓示の目的について触れている。啓示諸真理の列挙を急ぐ前に、啓示への態度をととのえる必要がある。「神のことばをうやうやしく聞き、そして述べる」という。啓示は「信仰の遺産」として「守り」つづけるべきものではあるが、そればかりではない。絶え間ない呼びかけとして耳を傾けるべきものであればこそ「聞き」といったのである。
 また諸真理の列挙がかりに満足いくまで出来上がったとしても、目的はそこにあるのではない。信じ、希望し、愛して、全世界が、父と子とともなる教会の交わりに加わるということである(3)。

この最後の(3)が註として、以下の文が書かれている。

「神のことばをうやうやしく聞き、確信をもって述べるに当り」といってはじまる『啓示憲章』の態度と「カトリック教会の伝える神の啓示はおもに次の三つのことです」といってはじまる日本の『カトリック要理』の教える態度とは大ちがいである。

このあと、啓示とはそもそも何なのか、神のことばではあっても、ことばだけではない、歴史の中の「行為」と「ことば」の両方なのであり、概念だけじゃないということがとくとくと述べられる。
ちなみに、ここで言われる『カトリック要理』改訂版(昭和47年)には、こう書いてある。これを見られたんだろう。

4 神の啓示はどのようにして、人びとに伝えられていますか。
神の啓示は、カトリック教会によって保存され、人びとに誤りなく伝えられています。
キリストは、福音を中心とする神の啓示をすべての人に宣教するよう、使徒たちにお命じになりました。それで、啓示は聖書において書きしるされ、聖伝によって、教会のうちに伝えられて、すべての時代の人びとのもとへもたらされるようになったのです。
神の啓示を伝えるカトリック教会の教えは、おもに次の三つのことです。
(1)神と、キリストによる人間の救いについて
(2)キリスト信者の道徳について
(3)キリスト信者の生活を支え養う秘跡と祈りとについて
pp13−14

要理(カテケージス)を今の時代にこんなふうに教える人は、たぶん、いないと思うが、だからと言って、別の「態度」というのは皆に理解されているのだろうか?とも思う。理解されているか、どうか、というのは調べなければ分からないし、こういうことが曖昧であるというのは何かしら基礎のゆるさを感じてしまう。
それにしても、沢田神父が昭和42年にこんなふうなことを考えておられたというのは発見だ。「転轍」な人びとというのは、もっともっといそうな気がするので、これからもチェックするつもり。