王であるキリスト

Fichier:Le Christ Roi (détail-de-l'apocalypse-.jpg — Christ-Roi
 1925年12月11日のピウス11世回勅Quas primasによって始められた「王であるキリスト」。20世紀から始まった祝日である。1922年以降イタリアではビットーリオ・エマヌエーレ3世&ムッソリーニによるファシズムによる政権下にあり独裁政治が始まることになる。カトリック教会はこの独裁政治に反対できないまま1943年まで時を過ごすことになる。
 一方で、1914−1918の第一次世界大戦の後、あまりにもその打撃のゆえに、当時、非キリスト教化の大きな波がヨーロッパを襲っていたということもある。その頃の風潮は教会の倫理や社会的道徳をまったく公に無視する傾向にあった。また、キリスト教以外の宗教の存在が明らかになってきた。そこにも真理があると・・・そして、ロシア革命が1917年。それまでのキリスト教教義やキリスト教の伝統を参照しなくてもよいような新しい社会の建設が始まったと言ってもよい。
 こういう時代にあって、1925年のこの回勅。
 19世紀にすでに「キリストの国」「キリストの支配する国」などの神学が出ており、ピウス11世はそういった考えを再利用したとも考えられる。
11月はカトリック教会では死者の月で、その最後にキリストがすべての死を支配し復活の救いに導くということで11月25日が「王たるキリスト」の祝日ということなのだが、どうもこの「王」というあたりが日本人には非常につかみにくいとわたしなんかは思う。これは日本人だからなのか?と思っていたら、今日、説教をしてくださったアメリカ人神父も「王と言われてもピンとこない」と言っていたから、やはり現代人にはわかりにくいということになるのか。
王さまにひれ伏したりしたこともないし、たぶん目の前を王さまと言われる人が通ったとしても、どんなふうに反応したらいいのかがわからないだろう。
しかし「神の国」「神の支配する国(バシレイア)」という感覚は身体空間的にとっても大切なもので、そこで大らかに歓待してくれる人ということになってくると、ふむふむ・・・という感じになってくる。
1925年、当時、ある意味で苦肉の策でこのようなお祝い日を設定したのだろうか。身体空間感覚的に非常に寒々しい世の中だったに違いないから。
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それにしても教会という制度は戦争や独裁の前に無力だな。どうすることもできない。20世紀初頭というのは掘ってみたらいろんなことがありそうなんだけど・・・