公教要理


1890年のカテキズム・レッスン@フランス
こんな感じだったんだろうなぁ。

Catéchisme — Wikipédia

暗記だからね、厳しいよね。
自分で告白し自分に言い聞かせ、沁み込ませる。
信仰を身体化する一つの方法だよね。
・・・で、先日、H神父さんが成聖の恩寵と助力の恩寵について子どもの頃習って暗記したっておっしゃるものだから、調べてみたらあったヨ。すごい、よく覚えておられるなぁ。ちなみにH神父50歳。


カトリック要理(改訂版)昭和47年

54 成聖の恩寵とは何を意味するのですか?
成聖の恩寵は、人間を神の前に正しいものとし、神との親しい交わりに入らせ、神の子とし、神の生命にあずからせ、永遠の喜びを得る資格を与えます。なお成聖の恩寵を受けている人の内には父と子と聖霊が特に親しくお住まいになっておられます。

55 助力の恩寵は何を意味するのですか?
助力の恩寵は救いを得させるために、人間の心を照らし強める神の助けです。この恩寵によって人間は信仰をいだき心を改め、義人は聖性にすすみ、死ぬまで成聖の恩寵を保つことができます。人間は神の恩寵を受け入れ、それに従うようにしなければなりません。

つまり、恩寵には二種類あって、成聖の恩寵というものと、助力の恩寵というものがある、と。この辺からしてみても、スコラ的。恩寵に種類があって、それぞれがそれぞれの働きをしている。神から降りてくる恩寵が色づいているような感じがする。こういった公教要理を受けていない私なんかは、恩寵に二種類あって・・・というようなイメージ化はけっこう違和感である。ただ、こういう細かな話しを熱心に聴いたり、覚えたりすることによって、「超越」との親しみは深まるかもしぬなぁと思ったりする。

第二バチカン公会議以降は、このような要理を受けてきた人びとも、受けていない人びとも、
皆、ともにキリスト者と言っている。