ささえ


「その時歴史は動いた」のキング牧師を見てて、分離政策というものを実際に映像で見てみると恐ろしく悲しいということに気づく。手洗い場所の写真やバスの中の映像は『ルーツ』を見た時以上のものがあった。写真やドキュメンタリーの力ってある。
キング牧師の演説を中心にした今回の番組だが、正義への意識の根底に彼の「信」があるのは間違いなかった。番組では「キリスト教」としてそれを強調したわけではない番組だったが、暗示的だった。
それで、コールバーグの「道徳性発達の段階」(三水準、六段階)と、それを「支える」位置にある第七段階としての「宗教・倫理・哲学」というのを思い出していた。
コールバーグの三水準、六段階は次のようなもの

1.慣習以前の水準

2.慣習的水準

  • 第三段階=対人的同調あるいは「よい子」への志向
  • 第四段階=「法と秩序」の維持への志向

3.慣習以降の水準、自律的・原理的水準

  • 第五段階=社会契約的遵法への志向
  • 第六段階=普遍的な倫理的原理への志向

『コールバーグの理論の基底』より

この水準と段階は、ある設定された状況下で、その人が選びをする際の「理由づけ」を分析することによって確認されることになっている。それで、正義、公正への志向がこのような形で説明されるのだが、コールバーグによれば、この段階は第一段階から順に第六段階へと進み、それを飛び越えることはないという。この根底には認知発達理論が応用されているわけだが、いろんな反論がありながらも分からないでもない主張だと思う。
コールバーグによれば「公正の原理」を最高の原理とする道徳の領域はすべての人に共通に達成するべき内容だが、しかし、「なぜ道徳的であるべきか」「きわめて不公正な世界において、なぜ公正であるべきか」と問うならば、次の第七段階の「宗教、倫理、哲学」にいかないと答えは出ないと言う。「なぜ公正であるべきか」の理由を見出そうとする態度そのものは、宗教の次元にすでに入っていると言うのである。
この第七段階への志向に生きる人は、生を「宇宙的パースペクティブ」から確信し、神や生もしくは自然との神秘的結合を感得するらしい。p194
コールバーグの第七段階は、真理への継続的な探究に対する献身という意味を包含するものでなければならない。p213
したがって、
認知発達理論上、次へ次へと進むこの道徳性の発達と、宗教の関係だが、この場合、宗教は道徳を支え、道徳の意味探求に応答する次元ということになる。
キング牧師が法学を学んだというあたりも、なんとなくこの図式から行けば、その後の彼の運動を堅固にさせたということに関係しているような気がする。慣習的レベルで、人間、人類への洞察を抜かして、普遍的な倫理的原理もないだろうし、単に、宗教(キリスト教)の信念だけで、いわゆる国家まで動かした民衆運動に発展することもなかったろう。
そして、彼の「言葉づかい」の美しさはまさに、言葉が支えられている宗教性に裏打ちされているという感じがする。
実は、宗教って目立たないものなのかもしれない。
ささえ、だから。
そういう意味で「その時歴史は動いた」の出し方、よかった。