モラル・ジレンマ


「宗教科教育法」の授業のために、コールバーグ理論を復習。
昔とった杵柄ではないが、コールバーグ理論を導入した道徳実践校に勤めていたこともあり、この理論と宗教の問題っていつか考えてみたかった。

コールバーグ理論の基底 (SEKAISHISO SEMINAR)

コールバーグ理論の基底 (SEKAISHISO SEMINAR)

去年は「研究授業」の回数の関係もあったし、そこまで考えていなかった・・・というところだが、今年は学生さんたちも少人数なので、道徳と宗教科の問題について考えられる余裕がある。
読み直してみると、コールバーグが「道徳性発達と宗教」の問題を考えていたかというのが分かってきた。
当時わたしが勤めていたのは、公立中学校で、宗教ナッシングな環境だった。若手教員としては、ベテラン教員の研究に従って、言われるがままに着いて行ってたというのが正直なところ。いくつかの道徳的発達段階をコールバーグは言うのだけれど、当時の研究会等では、コールバーグの言う道徳的発達第七段階「宗教的段階」というのははぶかれていたんではないかと思うのだ。意図的にそうだったのか、その重要性が分からなかったのか、不明なのだけれど。
マズローの欲求段階というのも教育研究では何度も繰り返し使用されていた。しかしあれでもどこか不満だったのは、頂点の自己実現が個の自己実現的な説明に終わるものが多かったということだ。あの頃、コールバーグが「宗教的次元」ということで補完していたことには気づかなかった。

そんなわけで、こんな資料なんかも参考にしてみようと思う。こちらは2巻。
手元にあるのは1巻。

モラルジレンマ資料と授業展開 中学校編〈第2集〉

モラルジレンマ資料と授業展開 中学校編〈第2集〉

昔は「かっとう教材」って言ってたものだ。
モラル・ジレンマの方がスマートだな。
「葛藤する」っていうのと「ジレンマ」というのではちょっと様態が違う気もしないではない。
どちらにしても、モヤモヤっとするってことかな。
いや、ドキドキってすることかな。
「どう〜しょうか〜」(広島べん)って思うことかな。
こういう状況を想定して、そこで、悩み、対話し、討論しということを教師が保障する。
思い出してみれば、小学生の頃から「どうしよう」って口の中で言ってることは多くなった。その「どうしよう」から「思索」とか「解決」とか次なる「行為」も出てきたものだ。
そして、中学にもなれば「罪の呵責」って言葉を覚え、自分のいたらなさなんかもうつむいたりするようになる。
たぶん、教師は、人の成長過程を抱きしめるってことをすることになるんだろうな。ふところの中での子どもの「モヤモヤ」「ドキドキ」。自分もその追体験することにもなるんだろう。学生さんたちには、この体験を実際にやってもらう。