40人


フランス人40人が日本を団体旅行する、という。
(どうも、想像できない)
そもそもフランス人が団体旅行をする、しかも日本。・・・信じられないことは起こるものだなぁ〜と思う。
この彼らが、ある日、日本のキリスト者と会いたいとおっしゃる。
この「出会い」をオーガナイズすることになったんだけど、なじみのフランス人司祭に相談すると、ぱぱぱーって話がまとまって、すすすーって信者さんたちが動き始めて、あっというまに、「出会い」ができそうな状況になっている。
(出会いに開いてるなぁって思う)
旅人をもてなす、とかって言うけれど、けっこう前からお膳立てして、計画して、あちらこちらと考えて・・・よいしょって感じだけれど、まぁ、考えてみれば、旅人って「いつ」やってくるかは分からないものなんだよね。
そういう「いつ」来るか分からない「誰か」を、こんなふうに、軽やかに迎え入れることができる。それは本当に「いいなぁ〜」って思う。
そして、ありがたい〜って思う。
◆◆
それと、もう一つ。
10月は引越しして、机に座ってなく、もう、だめだ〜って思っていたとき、11月3日に、阿部仲麻呂神父さんの博士論文公開審査があった。すばらしかった。
この日、わたしの内なる他者が目覚めた。
「欲しがりません、書くまでは・・・」
・・・と言いはじめていた。
結局、審査会場は言ってみれば「天国」であった。なにしろ、論文にとっては最終地点なのだ。論文という人格が行き着くところに行った「場」だったのだ。そこに居合わさせていただけた幸運もさながら、目指すべき「地点」が、そうか、ここだったのか・・・という、そういうことが分かったということなのだ。
何をしなければならないか、ということは、人にはひとりひとり与えられているんだけれど、ある意味、その人にとっての「天国」に至る道を歩み続けなければならないということなのだろう。
「天国」というところは、無償で与えられていると同時に、人、ひとりひとりが「歩み往く」ことをしなければならない。
こんなとき、間髪いれず、励ましてくれる人あり。
ぼやぼやしているわたしには、目覚めた内なる他者の勢いについて行くのがやっと、ってところだ。まぁ、そんなんでちょうどいいのかな。
◆◆
関西の引越し後の家にもどる。
わたしの少し残した荷物は別の部屋にあり、時が経っていることを知る。
わたしの昔の部屋は、あっても、ない。
壁も、たたみも、あっても、ない。
あるのは、この「わたし」。
そして「いつもの、みんな」。
そうだ、いのちがあるってことで、ここまで来たんだって思い出す。
わたしたちには、そもそもなにもなかった。
今日も、ここまで来られたのは、いのちを受けたから。
わたしも旅人だったんだ。