フランス・生命倫理法改正へ


1994に公布されたフランスの生命倫理法の改正はすでに2010年に予定されていたんだけど、いよいよ今年の春、サルコジ氏によってフランスの全市民に、国民的議論に盛り上げるようにとのお達しが出て、カトリック教会も非常に激しく動いている。
イエズス会のレビューETVUDES(Etudes)では特別号として「生命の始まりから終わりまで」http://boutique.revue-etudes.com/Decouvrez_nos_autres_produits/Hors-serie_BIOETHIQUE__du_debut_a_la_fin_de_vie/3/10を出している(見なきゃ)。
あと、フランス司教協議会ではブログも開設した!http://www.bioethique.catholique.fr/
ラ・クロア紙の特集:http://www.la-croix.com/dossiers2/sommaire.jsp?docId=2364352
↑ここに載ってたネットラジオRCFでの討論(司教協議会からの代表司教、カトリック大学の生命倫理の先生、イエズス会生命倫理の先生、ラ・クロア紙のディレクター)を聞いてみたが、問われている問いは日本でも議論になっている同じような問題だ:脳死臓器移植の脳死からの移植同意問題、出生前診断による選びの問題、不妊治療によって出現した余剰胚の利用問題、ES細胞の問題、尊厳死など。そういう問題を前に、フランスの生命倫理法は時代に合わせた問題が出てくるだろうという予測のもとに、こういう国民的議論の余地を残しているわけだ・・・。なるほど。
ブログも作ったほどにこの議論の中に自分たちも入って行きたいと望むカトリック教会側、だが、この司教さん、非常に「対話的」で、「正直」で、へぇ〜っと思った。「カトリック教会はこれまである種のイメージを皆に持たれていたのではないか。教会は社会から離れている、教会は厳しく何でも教えたがる、教会はこれはダメだ!と決めつける・・・」。こういう皆の思っているイメージを分かりながら、あえて、教会自身、人々から「聞かれる」のを待つんじゃなくて、「対話」と「自分たちから聞きに行く」というコミュニケーションの中に入って行きたい、と訴える。
もう一つなるほどと思ったのは、彼らが、上記の生命倫理の諸問題を「新しい問題」として扱っているところ。どの医療・技術的問題も、15,6世紀には経験したことがなかった、ほんのここ30年来の話。こういう問題に対して、教会が「答え」を持っているわけじゃないということを彼ら正直に述べている。そして「現代の若者が≪選ばなければならない問題≫はあまりにも多すぎる!」と言いながら、一緒に考えたい、キリスト教≪考え続けてきた≫伝統にも参考にしてほしいと訴える。
Etudesのメンバーの対談も聞いてて思うのは、すごい≪専門的≫だってこと。
まぁ、ジェズイットで生命倫理専門家だから専門家というのは当たり前かもしれない、が、こういう「専門性」の領域をまずは聞かないと、こういう問題は討論も、レフレクションも、何もできない・・・ということだ。抽象的な話をしていても≪識別≫の参考にも、≪選択≫にも至れない。

で、専門的・・・と言えば、日本の脳死臓器移植問題も専門的な知識がどう国民に伝えられるのか?というところが非常に問題である・・・と思えてならない。森岡さんが下記のところで話された≪長期脳死≫の問題はかなり知られていない。≪長期脳死≫の問題だけではなく、≪親族優先問題≫の何が問題なのか?というところも分かってなくて、って思うと、なんだかとっても大丈夫かぁという気持ちになっている。

参議院の四人の話を聞いていて、≪臓器が社会的資源≫という発言があり(移植の医師から)、それに対して、議員さんたちから「違和感」の発言が多々あった。このタームは言ってみれば、臓器移植が一般に行われている国では、たぶん、合意なところなんじゃないだろうか。脳死の状態になって、臓器移植までの間、その臓器はもう、誰にも所属しない。誰の財産でもない。それは、すべての人に平等に与えられるべき「非常に大切な賜物」なのであり、いわば「資源」なのである。それは意思表示をしていた方の臓器もそうだ。脳死臓器移植というのは、そういう「人間尊厳」の崇高な医療なはず。
・・・そういう原理原則があっての臓器移植じゃないのか?・・・と思うのだが、議員さんたちは、なぜ、あそこで「資源」に反応してしまったのだろう。「資源」じゃだめなのか?そういう原点的なことが「一般認識」されないまま、このA案が通って行って、合法化されていくことを考えると、どんな混乱がやってきたとしてもおかしくない。
不思議だ・・・
森岡さんの発言をもう一度、聞こう・・・