色にならない日常


昨日、2008-06-23 - 止まり木から羽ばたいて!で、こんなことを考えた。

図に描いてしまうと、すごく抽象的なんだけど、煉獄(purgatory)は、この地上(earth)と天の国(paradise)との間にある。図にしてしまうと三段構造になっているが、これが「今、ここ」で混合しているとしたら、どうだろう。色にも表わせず、かたちにもならない。それは人が苦しみを通りながらも、希望を見ている、そういう状態なのではないだろうか。事実、私たちが経験しているかもしれない、「今、ここ」なのかもしれない。天に向かって希望する、どこまでも希望する。待ち望む、どこまでも神を待ち望む。煉獄の深みから、地の果てまで。

それで、今日、ラーナーの『この世界を愛する信仰』*1を読んでいて、
こうだなと思った・・・

わたしは頭の中で、生とか死とかを区別する。
しかしこの地上では実にそんなこと整理のつかない現実に混合されきっているのだ。
ラーナーはそれを≪にごった混合≫と言っている。
いや、昨日も≪色にならない日常≫があると思っていたけど、
やっぱりそうだった。
ラーナーは≪にごった混合≫をこんなふうに表現される・・・

大地は常に生と死と二つをかねるので大抵の場合は、生にも死にも徹しきれず、
大地がわれわれに供する生と死、歓声と嘆声、
創造的活動と相変わらずの強制労働とのにごった混合を、
われわれは日常生活とよぶのである。p94

この世界とか、日常生活を≪にごった混合≫って呼ぶラーナーの感受性ってスゴいって思う。彼の目にはそんなふうに映っているのか。
さらにすごいのは、その日常のなかに、イエス・キリストが≪どのように≫≪いる≫のか?という描写である。彼の死というのは、地上の最深部、中心、根の根、地上万物の中心に降りていくことであった。そして、そこで復活している。言ってみれば、この≪にごった混合≫の≪日常生活≫の真っただ中に、彼の現存はあるということなのだ。
エスは、万物の決定的な真底に行くのであって、

復活して、地上の小屋から立ちいでたのではない。p96

われわれにはわからない・・・

われわれはすて去ることのできないこの世のあわれな万物のまっただ中に、
キリストは≪もう≫≪いる≫のである。p98

彼が存在する、彼がいる、どこにいるか、ここにいる。

それゆえに、この地上の子らであるわれわれは、この世を愛してよいのであり、
いな愛さなければならないのである。
この世がおそろしいものであり、その窮乏や必減でわれわれを苦しめる場合にも、そうである。
なぜなら、かれが死と復活とによって、永遠にその中にはいりこんで以来、
この世のなやみは、復活したキリストたるこの世の最奥の秘義への、
われわれの信仰の単なる暫定性と試練とに化したからである。p99

はるるさんの『アーミッシュのゆるし』に通じるんだなぁ。あぁ・・・
はるるさんの新しいアーミッシュ記事⇒http://d.hatena.ne.jp/nihongo/20080625
明日から仙台 - はるるの勝手に独り言

*1:カール・ラーナー著『この世界を愛する信仰』小林珍雄訳、エンデルレ書店1967年