他者と自由

基本的に私はラーナーさんが好きだ。
自分自身こういう構造で信をとらえているんだと思う。
(ラーナーさんみたいには言えないけどサ)
他者と自由の問題について、二つ引用

 とにかく、人間のあらゆる経験が示している方向は次のことである。すなわち、世界内に人格的罪過の客体化が実際に存在し、これが他の人間の自由決定の素材としてこの自由決定をおびやかし、これをそそのかし、自由決定を苦痛にしている、と。そして、自由決定の素材は、常に自由行為自体の内的契機であるから、有限的で善良な自由行為も、この素材を絶対的に改善し徹底的に変革しない限り、常にこの罪過によって規定された状況から拘束を受けて、それ自体、右にも左にも転がりかねない。それは自らの意志しない結果に縛られている。この結果は、人間を惨めな袋小路へと導き、自分の自由をもって意志した善をも覆ってしまう。
キリスト教とは何か p145

つまり、人間は、恒常的に何かに覆われている、という人間理解。

一人ひとりの人間にとって、生まれたときから他人の罪過によって刻印を受けていないような絶海の孤島のごときものは存在しない。直接であろうと間接であろうと、また近くからであろうと遠くからであろうと影響されている。人類の具体的な現世の歴史には、この罪過による自由の状況の規定が、いつの日か決定的に超克されるというようなことは、漸近的な理想であっても、現実に可能ではない。
同ページ

そうして、この後、ラーナーさんは、
キリスト教の「歴史的悲観主義」が世界の改革に最も貢献しうると、キリスト教は考えていると述べる。
また、「決して安易にごまかしてはならぬ事実であることに変わりはない」とも言う。
こういう展開がさすがカトリックという感じなのだけど、これはけっしてお世辞*1でなく好きだ。
人格的罪過の客体化とは、自分自身のそれと同時に他者のそれでもある。
キリスト者は基本的にこういうところで他者との関係を取っているんじゃないかと思う。
他者には顔があり、自分の顔と向かい合う。
目のない顔を持つ神の顔*2が、その両方に向かう。

*1:手前味噌?って言うのか?

*2:これもラーナーの言い方p59