宗教と形而上学


題名にひかれ、一気に読む。

〈宗教化〉する現代思想 (光文社新書)

〈宗教化〉する現代思想 (光文社新書)

著者によれば、
共産主義社会が到来すると言うマルクス主義唯物論も、
終末のときに神の国が到来するというキリスト教も、
形而上学的に同じであり、
ハイデガーデリダも、
新たな形而上学への移行を試みたから、
形而上学に同じであり、
哲学者は比喩を用いたとたんに形而上学になり、
理性の宗教をかかげたロベスピエール形而上学であり、
デカルトもカントもヘーゲルもそうだし、
哀れみや共感の論理によるものも、それにそぐわないものは排除という意味でそうだし、
さらにはキリスト教にみられる「告解」「告白」が、
内面に定着しているエクリチュールであるように、
左翼活動家の総括も、
自分探し、私語り系の若者も、
「内なる声」という「内面性」の形而上学なのである。
ゆえに、

・・・「形而上学の解体」あるいは「形而上学からの離脱」に拘りすぎると、余計に「形而上学」にはまってしまう、という逆説がある。そもそも「形而上学から離脱しなければならない」という発想自体が既に、〔形而上学に囚われている状態=非真理/形而上学から離脱した状態=真理〕という(プラトンキリスト教的な)二項対立図式によって汚染されている可能性がある。「形而上学から完全に離脱した状態」に到達することが可能であるという思い込みは、それ自体が十分に"形而上学的"であるので、そうした状態に到達すべく邁進すればするほど、強力な形而上学的世界観に深くはまり込んでいく。p233

そういうわけで、著者は、

形而上学的な諸幻想からの"最終離脱"のようなことは目指すべきでないと考えるようにしている。p234

そうだ。
・・・で、テーマの「宗教化」なんだけど、どうもこの書には、
形而上学的なもの=(プラトンキリスト教)=宗教的
という前提があるらしい。
だから、上記にみられる現代思想もその前史の哲学も、
≪形而上化≫すなわち≪宗教化≫してるんだよということなんだな。

◆◆

しかし、どうも私には≪形而上学≫=≪宗教≫の図式が腑に落ちない。
形而上学≫=≪神学≫なら、話しは別。
テーマも、「<神学化>する現代思想」なら分からないでもない。
前にやぎぃさんのコメントで「信仰を語る言葉」と「信仰の信憑性を語る言葉」の違いを対話した。
2008-06-07 - 新生★KARPOS
神学は信仰の信憑性を語る言葉だし、当然、形而上学的な言説にもなる。
形而上学的ではない神学、というのが「物語神学」「解釈学的神学」だったりするのか)
(その辺りがつかみきれてない私)
でも、
神さま!って言ったとたん、メタになるでしょ、だから形而上学でしょ、
だから、宗教は形而上学的でしょ?と言われると、それは違うような気がしてならない。
その告白の声も、あなたの内に自然に内面化されたエクリチュールなのですと言われたとしても、
それはとても美しい表現で気に入ってしまったのだけど、
なんだろ、たぶん、営んでいることそのものと、それを説明したときの違いというのかな、
行為そのものと、その行為を反省し状況解説したものとの違い、
発話行為と、言表の違い、とか・・・
その辺の微妙な問題が≪形而上学≫=≪宗教≫への違和感を生んでいるような気がするのだな。
こんなことを考えていると、
宗教を生きていることと神学を営んでいることとの間にある次元の違いがあることに気づいたりする。
どちらが優位ということはないが、宗教そのものに関しては、
わからないけど、
≪出自≫にも関わるような話しであって、
≪宗教化≫と、≪化≫をつけるような、後からの話しじゃないような気がしてる。
宗教が後天的なものではなく、先天的なもののような・・・
人間そのものに備わっているもののような・・・
人間が宗教化するんじゃなくて、
人間=宗教のような、もの。
でも、ここで、
「・・・ナもの」って言ったとたん「そりゃ形而上学だ!」って話しになるのかナ。
・・・ナものでいってみよぉ。