優しい関係


現代日本の若者たちが織りなす高度なコミュニケーション「優しい関係」を、
「友だち地獄」とはよく言ったものだなぁ...

友だち地獄 (ちくま新書)

友だち地獄 (ちくま新書)

一見、高度でソーシャルなコミュニケーションに見えて、その反面が地獄だなんて。
こういったコミュニケーションが「終らないいじめ」の原因ともなってるとするならそれはやはり地獄だ。
読みすすめていけばどこかに希望か解放があるのだろうと思いながら最後まで読んでいったが、結局、この「友だち地獄」から脱出するスベは述べられない。そりゃそうだよね、そんな簡単に脱出できないのが地獄なのだ。
この書で取上げられる「世代」は、いじめ、ひきこもり、リストカット、ケータイ世代、少年、少女、そして大学生ということだが、いやはや「40代のわたし」なんかにも、ま、言ってみれば、当てはまらなくもない現状認識が散りばめられている。

現代の若者たちは、自分の対人レーダーがまちがいなく作動しているかどうか、つねに確認しあいながら人間関係を営んでいる。周囲の人間と衝突することは、彼らにとってきわめて異常な事態であり、相手から反感を買わないようにつねに心がけることが、学校での日々を生き抜く知恵として強く要求されている。その様子は、大人たちの目には人間関係が希薄化していると映るかもしれないが、見方を変えれば、かつてよりもはるかに高度で繊細な気くばりを伴った人間関係を営んでいるともいえる。
このような「優しい関係」を取り結ぶ人びとは、自分の身近にいる他人の言動に対して、つねに敏感でなければならない。
p17−18

この「優しい関係」こそが「闇」なのだ。「生きづらい」「生きさせろ」って叫ぶ現代(若者だけでなく)人の皮膚にまとわり付いてくるこのウヨウヨさは、なんだか気持ちいいように感じられ、ソフトで、人当たりよく、何もなかったかのように触れてくる優しさでもある。「闇」って言ってしまえば、「悪」ってことにもなろうが、そうじゃない。なにしろ「優しい関係」だ、悪いものじゃないんだろう。
こういう関係がわれわれの皮膚のまわりで関係されていけば、いつのまにか、リアリティというものを感じなくなってしまう(森岡正博さんのテーマ「無痛化」にも通じる)。リアリティを実感できない人間が行き着く先は、リストカット(自らを傷つけ痛むことで生を実感する)、そして、死さえもその道具になってしまう(死は最終的なリアリティ。「友だち地獄」の著者はネット自殺をこう説明する)。
人間と人間の関係だけをグルグル回っているだけでは、この地獄からは脱出できない。脱出するために、自分を痛めつけたり、自分をなき者にする以外に方法が見つからないというのが関の山なのだ。人間と人間の関係がリアリティを排除する「優しい関係」なのなら、そんなところをグルグル回るのはやめて、自分と神との関係に超越したらどうか?
人はどうせいつかは死ぬ。だったらそれまで、独我的に自分自身が自分自身になってみたらどうか。神との関係に「優しい関係」などない。たぶん、神の前では、絶叫や、罵倒や、のた打ち回るほどの苦悶、そんな姿をさらけ出すことになるのではないか。それが本来の自分なのかもしれないのだ。
「友だち地獄」ってほんとうによく言ったものだと思う。もしかすると「人間地獄」なのかもしれない。人間と人間の関係をどこまでも高度にし、発展させたところで(そのあたりを第一世界は教育・文化で支えてきたと思うが)、脱出しようと思えば思うほど泥沼に沈んでしまう。
キリスト者は、この深い泥沼の淵から叫んでいた太古の人間の姿を知っている。わたしはこの人たちの生のリアリティに共感するし、彼らに出会ったことでかろうじて生きている。彼らと同じように神に向かって泣き叫び、うろたえながらかろうじて生きている。
「生きづらい」「生きさせろ」って思う人は、この太古の人に会ってみたらどうか?そしてこの太古の人たちに会って、なるほどと思った現代のキリスト者にも会ってみたらいい。ぎりぎりで「生きさせられている」人間もいる...
ブログなんてバーチャルな方法使っててなんだけど、
人間と神との関係はリアルであるということをここに宣言す。