今日の第二朗読、1ヨハネの手紙3、20bに、

神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてを識っておられる。

と、あった。
ここのところ最終コース第四コーナーを走ってる私は、まったく逆の「私は、神の心よりも大きく」みたいに生きているんじゃないかって考えさせられてる。このフレーズがすごいのは、神は、「わたしたちよりも大きく」じゃなくて、「わたしたちの心よりも大きい」と言ってるところ。ここでは、神の像が立ちはだかって人間よりもものすごく大きくて、権力を行使しているということが言われているのではない。心が、問われている。そうして、そのあと、神はすべてを「識っている(discernement)」とつづく。シメオンがマリアに言ったことばを思い出す「あなた自身も剣で心が刺し貫かれます」。そう、心が見極められる、ということ。
心の空間は見えない。見えない空間を、大きいとか小さいとか、まるで見えるもののように取り扱うのは思い上がりだろうか。でも、この見えない心こそ、わたしたちにとってとてつもない困難さをわかちあってくれるのだ。私の仕事の困難さを省みたとき、たぶんその8割は心の葛藤なんじゃないかって思うこともある。
ヨハネの手紙、心の話を囲んで「愛するということ」がとくとくと語られる。

わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じている。
ヨハネ手紙4、16

ヨハネの手紙は、もしもあなたがこれを宣言したいならことばや口先だけでなく行いで示せと言いたいんじゃないか。今、あなたが生きている場で。そして、そうすることで、あなたの心も落ち着くと。神は愛だから、愛の神に貫かれるままにとどまって。
私にとって、焦りとか、自信のなさとか、恐れとか、すべて心に沈んでるもの、沈んでいるのにわき起こるもの。この心こそを、神のみ前に置いて、見つめられるままになるということ、とにかくここから。