健闘中


「○○における××」論文を書いている。
「○○」のところにこれが入る↓

よく「おける論文〜」なんて言って、そんなんで神学やってるとか哲学やってるとか言えないよねーって自分が学部生のとき言ってた時期があって、若かったんだなぁ〜と思う。というか、元気があったんだな。「神学ってこうでしょ」っていうイメージや理想があって≪当然、自分で考えてってことだけど≫、自分ではどうせできないくせになんか理想を語ってた。
でも今さらながら「おける論文」って実は「愛」なんじゃないの?って思い始めてきた。「デカルトにおける我」とか、そういう題名で論文書くなら、とりあえずデカルト読まなきゃなんないし、デカルトが好きじゃないと書けない。それで、デカルトが「我」をどう思ってるのか、相手のそういう深層に近づかないとデカルトの考える「我」はわからない。
つまり相手を知る、愛なんだよなぁ。
たとえば今このC・ジェフレを読んでいるわけなんだけど、スースーと読めるところはやはりやさしい。ふむふむ、そんなことを考えておるのかぁと思う。しかし、込み入ってグダグダと理屈をこねくりまわしているところは、ちょっとわかるように言ってよ〜と思ってしまう。そんなとき、もしかすると、そんなふうにしか言えないあなたさまは、ここの部分に関してまだはっきりわかってないんじゃないの?とか勘ぐったりする。ま、わたしの読解力ってのも問題にはなるんだけれども、さ。
「おける論文」ってやはり「愛」なしにはありえない。
もし発表するならそのときは、わたしのフィアンセはこんなに素晴らしいんですよぉ〜って情熱を込めなければ聞いてる方もつまんないだろな。ま、その情熱だけでも聴衆者に伝わればいいか・・・
♪へへへ・・・神学的作業にも愛はあるのよ、うん。
C'est l'amour qui conduit le travail théologique à l'amour...