前に立て置くこと

karpos2007-07-11

M.モンテッソーリの教育法というのがあって、
先日、面白い話を聞いた。
写真は感覚教具→http://www3.e-youme.com/e-catalog/01goods/shohin_detail.php?shohin_id=20471&mode=01&oh_bunrui_cd=26&tyu_bunrui_cd=050&gyouji_id=&search_text=&page=4
事物の認識に関する三段階について。
まず、目の前に三種類くらいの事物を置く。

  1. 一つを指差して、「これは○○ですよ」。
  2. 次に聞く、「○○はどれ?」「これだよ」と子どもは答える。
  3. 最後に問う、「これは何?」「○○だよ」と子どもは答える。

たとえば、

  1. 「これは三角ですよ」
  2. 「三角はどれ?」「これだよ」
  3. 「これは何?」「三角だよ」ってな感じ。

ここまで来れば「これが三角だ」とわかってるということになるらしい。
それで・・・

構造と解釈 (ちくま学芸文庫)

構造と解釈 (ちくま学芸文庫)

今、これを読んでるところ。
なるほどなぁ解釈学に行かざるを得ない道筋がこんなふうだったとはと妙に納得する。
ハイデッガーデカルトをこう分析しているらしい。

 後年のハイデッガーは、大変有名になったある論文の中で、デカルトと共に、近代を特徴づける「世界統握の時代」が始まったと言っている。近代においては、「存在者」を「対象化」してゆくことがなされるが、このことは、存在者を自分の前に立て置いてそれを確実に掌握するという意味での「表象作用(前に立て置く働き)」の形でなされ、「真理」は今やこのような「前に立て置く働き」の持つ「確実性」となってゆくのだが、これらのことは「デカルト形而上学」の中で明確に遂行されたと言う。P155

「前に立て置く働き」。

「前に立て置く働き」は、こうして、「自分の方から、何かを、自分の前へと立て置き、そしてこの立て置かれたものをそうしたものとして、確実に立て置こう」とする働きなのである。そして、このように何かを確実なものとして立て置く働きを行う際には常に、そのように「前に立て置く働きをしている人間」つまり、「我(エゴ)」が、疑うべからざるその根拠として、同時に表象され、立て置かれている。このような「思考する我」の「存在」こそが、「根本の確実性」なのであり、こうして今や「人間が、存在者そのものの連関の中心となる」に至ったのである。P。156

存在者を私の認識で「在る」ということが自我の確実さへとつながり、
JE PENSE DONC JE SUIS.となる。
そのときもちろん、ET DONC TU ES.なのね。
教会における信の言語は、こういう時点から前にも後にも行けなくなってるんではという気がする。

  1. 「この方が神さまですよ」
  2. 「神さまはどなた?」「この方だよ」
  3. 「この方はどなた?」「神さまだよ」ってな感じ。