信頼


Emmaus'さんのブログから・・・

呼びかけの声とともにいる信頼は従順にまさる大きさになってゆく。
http://d.hatena.ne.jp/Emmaus/20051130


今日のミサの第一朗読はロマ書だったんだけど、
その箇所のちょっと前に(以下引用)こんなことが書いてあって、
ちょうどEmmaus'さんの上の言葉でもっと響き返された気がするよ。

モーセは、律法による義について、「掟を守る人は掟によって生きる」と記しています。しかし、信仰による義については、こう述べられています。
「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。
では、何と言われているのだろうか。
「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」
これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。
ローマの信徒への手紙10章5−8


いや、パウロってまったくとんでもない人だ。
つまり彼が言いたいことは、
神の呼びかける声がそこにある、
あなたのその口にある、
あなたのそのからだの内ににあると言ってるわけで、
そういう状態って、いったいどういう状態なのか、
ほんとにわかって言っているんだろうかって、思っちゃう。
いや、信とは、まさに、そういうことなのかもしれませんぜ。
法による義とは異なる信による義。
キリストを天から引き降ろすことも、墓から引き上げることもせぬようにと・・・
これは戒めというよりも、驚きに近い。


他者を排他することのないキリスト教の信は、

福音をまだ受けなかった人々もいろいろな意味で神の民へ秩序づけられている。
Lumen gentium16

と言う。
第二バチカン公会議、新しいと言うけれどこの辺りはまさにキリスト教の伝統なのかも。