思い、ことば、行い

それなのにお前たちは、『主の道は正しくない』と言う。聞け、イスラエルの家よ。わたしの道が正しくないのか。正しくないのは、お前たちの道ではないのか。正しい人がその正しさから離れて不正を行い、そのゆえに死ぬなら、それは彼が行った不正のゆえに死ぬのである。しかし、悪人が自分の行った悪から離れて正義と恵みの業を行うなら、彼は自分の命を救うことができる。彼は悔い改めて、自分の行ったすべての背きから離れたのだから、必ず生きる。死ぬことはない。
エゼキエル書18章25−28

「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」
マタイによる福音書21章28−32

今日の、第一朗読、旧約聖書からエゼキエル、
福音の朗読としてマタイによる福音、この組み合わせ、なるほど。
口先で「行きます」って言っておいて行かない弟よりも、
後で考え直して出かけた兄が、父親の望みどおりにしたと言う。
言行一致、というけれど、
これを貫き通すのはなかなか難しいもの。
とはいえ、
後で考え直して、
トボトボとでも・・・
スタスタとでも・・・
ルンルンとでも・・・、
行けばいい、いのちを選ぶ道を。
必ず生きる道を、行けばいい。
この弟だって、そのとき行かなかったけど、
後で考え直して、あの放蕩息子みたいに。
そう、考え直すって謙遜を引き受ける行為だけど、
待っててくれる永遠のいのちの懐の大きさを思えばどうってことない。
このとき、キリスト者たちは、
それをイエス・キリストに従う道と言う。
この地上の人間を愛してやまない天の父がイエス・キリストを与える。
今日の第二朗読はパウロのフィリピ人への手紙。
キリスト者としてのパウロの信の告白がそこにある。

そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。
フィリピ人への手紙2章1−11