被昇天

火のなかに生まれるものあり

また、天に大きなしるしが現れた。一人の女が身に太陽をまとい、月を足の下にし、頭には十二の星の冠をかぶっていた。女は身ごもっていたが、子を産む痛みと苦しみのため叫んでいた。また、もう一つのしるしが天に現れた。見よ、火のように赤い大きな竜である。これには七つの頭と十本の角があって、その頭に七つの冠をかぶっていた。竜の尾は、天の星の三分の一を掃き寄せて、地上に投げつけた。そして、竜は子を産もうとしている女の前に立ちはだかり、産んだら、その子を食べてしまおうとしていた。女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖ですべての国民を治めることになっていた。子は神のもとへ、その玉座へ引き上げられた。女は荒れ野へ逃げ込んだ。そこには、この女が千二百六十日の間養われるように、神の用意された場所があった。
ヨハネの黙示録12章1−12

8月15日は、マリアの被昇天の祝日としてカトリック教会では祝われる。
すでに5世紀頃から、マリアが亡くなる時の様子を描いたイコンがあったり、その死が特別なものとして崇められていたわけだが、マリアへの信仰は、特に西方教会*1で広められ、とうとう20世紀になって、このマリアの被昇天という祝日までできてしまったというわけである。
その日の第一朗読、ヨハネの黙示録
この黙示的な言い回しにいったい何が言いたいのか?と問いたくなるけれども、ここには初代教会の置かれていた現状、迫害の状況が示されているのは明らか。
大きな竜、火のように赤い・・・と、キリスト者たちを襲ってくる者たちの姿が暗黙に描かれる。
そして、そのなかで、マリアが子を産む。
この子こそ、生まれたばかりのキリスト者共同体の姿なのだ。
生まれ続けること。
生まれることで、その存在を明らかにする。
歴史のない、素人の、それでも何かが生まれている彼ら。
産む、産み続ける女たち。
神の用意された場所へと逃げ込んで、じっとその成長を待つ。

*1:しかもフランスのマリア信仰は強し