Louvre

karpos2005-12-05



第一日曜日はミュゼがただだからね。
今日はルーヴルに行ってきた。
お馴染みのサモトラケのニケ


今回の目的はCaravaggioのLa mort de la Vierge。
師匠がパリに来た時、毎日かよっておられ、
すごい、すごいと絶賛だったあれ。
これは師匠が好きなはずです。
よくわかりました。


ちょうど一緒に長い時間眺めてたおじさんが、
いろいろ説明してくれる。


マリアは受胎して死んでいる。
マリアの横で悩みこんでるヨハネの手。
天井から垂れている深紅の幕は何を示しているのか。
これは部屋の中ではなく、背景には空が見える。
そして、丘。
丘が暗くなだれ落ちるように背景を横切る。
つまり、深紅の幕は、
この死が意味するこのシーンをリアルに劇化する効果。
単なる家のなかの赤いカーテンなんかではない。
マリアのはだしの足。
死んだ者の足が宙に浮く。
聖なるマリアをこんなふうに描くとは。
その足もとには、たらいの水。
水が示す、聖性。
娼婦、マグダラのマリアがふせって泣いている。
その肩を、
死んだマリアの左手がまるで抱え込んでいるようにも見える。
マリアの右手は受胎したお腹のうえに。
うっすらと弱い金色の輪がマリアの頭のうしろに。


ローマ・トラステベレのある教会から「被昇天」のために委託され、
カルバッジョが描いたのだが、結局その教会からは拒否。
その教会には別の「被昇天」がかかっているらしい。
当時のマリア画・像は、美とこの世離れ。
エスが人間味を出し始めるのに、不思議にマリアはちがう。
でもまぁ・・・
イタリアコーナーを見ててつくづく思った。
信の解釈は、あの時代でも多様だったんだなと。
15−17世紀。
それらの中に、画家が聖書の箇所を混同してとんでもない「聖性」を描いているのがあった。
こういうことが起こったって、不思議じゃない。もちろん現代だって。
とんでもないっていうのは画家さん達に失礼かもしれないけど、
わたしには理解不可能だった。