ヤコブの息子たちよ、集まって耳を傾けよ。お前たちの父イスラエルに耳を傾けよ。ユダよ、あなたは兄弟たちにたたえられる。あなたの手は敵の首を押さえ/父の子たちはあなたを伏し拝む。ユダは獅子の子。わたしの子よ、あなたは獲物を取って上って来る。彼は雄獅子のようにうずくまり/雌獅子のように身を伏せる。誰がこれを起こすことができようか。王笏はユダから離れず/統治の杖は足の間から離れない。ついにシロが来て、諸国の民は彼に従う。
創世記49章2、8−10

アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリスト系図
アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、ユダはタマルによってペレツとゼラを、ペレツはヘツロンを、ヘツロンはアラムを、アラムはアミナダブを、アミナダブはナフションを、ナフションはサルモンを、サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイを、エッサイはダビデ王をもうけた。ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ、ソロモンはレハブアムを、レハブアムはアビヤを、アビヤはアサを、アサはヨシャファトを、ヨシャファトはヨラムを、ヨラムはウジヤを、ウジヤはヨタムを、ヨタムはアハズを、アハズはヒゼキヤを、ヒゼキヤはマナセを、マナセはアモスを、アモスはヨシヤを、ヨシヤは、バビロンへ移住させられたころ、エコンヤとその兄弟たちをもうけた。バビロンへ移住させられた後、エコンヤはシャルティエルをもうけ、シャルティエルはゼルバベルを、ゼルバベルはアビウドを、アビウドはエリアキムを、エリアキムはアゾルを、アゾルはサドクを、サドクはアキムを、アキムはエリウドを、エリウドはエレアザルを、エレアザルはマタンを、マタンはヤコブを、ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで十四代ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である。
マタイによる福音書1章1−17

この系図のなかに、5人の女性が登場する。
タマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻、そしてマリア。
皆、それぞれにわけありな女性だ。
もちろんこの世にわけナシな女性なんていないよね。皆、それぞれにあるよね。
女性たちのドラマだな。明日のマリアの前に4人の女性を復習*1

タマル:彼女はこうして、ユダによって身ごもった。19:彼女はそこを立ち去り、
ベールを脱いで、再びやもめの着物を着た。20:ユダは子山羊を友人のアドラム人
の手に託して送り届け、女から保証の品を取り戻そうとしたが、その女は見つから
なかった。創世記38章
ラハブ:1:ヌンの子ヨシュアは二人の斥候をシティムからひそかに送り出し、
「行って、エリコとその周辺を探れ」と命じた。二人は行って、ラハブという遊女
の家に入り、そこに泊まった。2:ところが、エリコの王に、「今夜、イスラエルの
何者かがこの辺りを探るために忍び込んで来ました」と告げる者があったので、3:
王は人を遣わしてラハブに命じた。「お前のところに来て、家に入り込んだ者を引
き渡せ。彼らはこの辺りを探りに来たのだ。」4:女は、急いで二人をかくまい、こ
う答えた。「確かに、その人たちはわたしのところに来ましたが、わたしはその人
たちがどこから来たのか知りませんでした」。ヨシュア記2章
ルツ:20:ナオミは嫁に言った。「どうか、生きている人にも死んだ人にも慈し
みを惜しまれない主が、その人を祝福してくださるように。」ナオミは更に続け
た。「その人はわたしたちと縁続きの人です。わたしたちの家を絶やさないよう
にする責任のある人の一人です。」21:モアブの女ルツは言った。「その方はわた
しに、『うちの刈り入れが全部済むまで、うちの若者から決して離れないでいな
さい』と言ってくださいました。」 22:ナオミは嫁ルツに答えた。「わたしの娘
よ、すばらしいことです。あそこで働く女たちと一緒に畑に行けるとは。よその
畑で、だれかからひどい目に遭わされることもないし。」23:ルツはこうして大
麦と小麦の刈り入れが終わるまで、ボアズのところで働く女たちから離れるこ
となく落ち穂を拾った。ルツ記2章
ウリヤの妻:2:ある日の夕暮れに、ダビデは午睡から起きて、王宮の屋上を散歩し
ていた。彼は屋上から、一人の女が水を浴びているのを目に留めた。女は大層美し
かった。3:ダビデは人をやって女のことを尋ねさせた。それはエリアムの娘バト・
シェバで、ヘト人ウリヤの妻だということであった。サムエル記下11章

ところでマタイはこの系図で何が言いたかったのだろうか。
人間のドロドロした歴史、終わることのない巻物に終止符を打ちたかったのか。
いや、そうじゃない。
おわりを見て、はじまってしまった「生」の驚きに満たされて、
この系図を書いたんじゃないのか。
マタイはイエスの十字架の死を「知」っている。
その死を凝視した目と、復活のキリストに触れたこの手で、彼の誕生を書き始める。

*1:しかし、旧約聖書にはご存じのとおりもっと多くの女性が登場しております。蛇足です。