臓器移植法改正の問題整理


いよいよ議員立法で国会に提出ということから、ちょっと頭を整理・・・
http://mainichi.jp/select/seiji/news/20090516ddm005010016000c.html

  • WHOが5月中に、臓器移植は自国で完結すべきと言っている=海外渡航で移植手術ができなくなる恐れ

http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20090505-OYT1T00844.htm

  • 改正した方がいいと思っている国会議員は8割

http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20090502-OYT1T01118.htm?from=nwlb

  • 小児科学会はA・D案だめ、B案をおしてる

http://www.yomiuri.co.jp/iryou/news/iryou_news/20090428-OYT8T00254.htm

  • ヤフーのまとめ

http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/science/organ_transplant/

  • 哲学・倫理関係の先生たちの反応/声明

生命倫理会議

  • よく考えた方が良いという意見

http://mainichi.jp/select/opinion/editorial/news/20090511k0000m070108000c.html


普段から家族みんなでよく考えて「ドナー・カード」について理解していた方がよい、というのは分かる。しかし、この問題、考えても、考えても、どうも考えたからって結論が出るような問題ではないような気がしてきた。これは「逃げ」なのか?いや、逃げじゃない。
「死」について一生懸命、何かを理解しようとしても、どこかで「分からなさ」がつきまとう。だからこそ、そこから「存在」とか「真理」とか「現実」とか、そういう哲学的な飛躍へと移行することに、人間の人間らしさがあると思うんだが、この「脳死」ということだって、「脳死は死だ」とか「脳死は死じゃない」とか、まず、そういう規定をしなければならないところに(規定をしなければ議論が進まないところに)、「死」の不可思議さが、この議論に反映される余地を与えず、そうなってくると、もう、思考停止状態を帰してしまう・・・という感じになってしまうわけだ。
近くの人に聞いてみると「わたし、ドナー・カードを持ってるよ」って気軽に言ってる人たちは、はっきり言って、あまり「脳死は死だ」とか「死じゃない」とか、深く考えているようにはみえない。それよりももっと「やっぱり、なんか、自分が誰かの役に立てることがあるんなら・・・」というような、非常に単純な(単純と言ってしまうと語弊があるが)、人間関係行為をすすっとやってしまえる軽やかさのようなものがみえる。いいとか、わるいとかの話をしているんじゃなくて、ものすごいシンプルな話でもあるような気がしてきたんだなぁ。
意思・決定、って、よくよく考えて、分かって、というのももちろん大切なんだけど、思いを、つまり心に聴くってことも大切なんだろう。
豚インフルエンザで、WHOも臓器移植に関する施行を遅らせるってことで、もう少し、時間がいただけたってところなのかも。