昇る

昇るという自動詞よりも挙げられるという受動ってことかな。
カトリック中央協議会ということもあって、これから日本のカトリック教会全体で殉教者を思い起こす一年となる。来年の11月、長崎か、行きたいな。上にあるものをいつも見ながら、そこから目をそらすことなく、地上に立つ。殉教者の精神というのはそういうことなんだろう。
何かによって「生」を否定される。それが政治的権力であったり、宗教的権力であったり、あるいは、もっと身近な話で言えばいわゆる人間関係だったりする。それは「誤解」ですよ、ということにはならない。一方的に否定される。そもそも誤解というのは、否定している側が相手側の真意を理解していないということだ。生を否定されるほどに追い込まれているということになってくると、否定している側の方に真意があって、相手側には真意はない、ということになる。殉教者は完全に生を否定された情況にあって、わたしに真意はあると言って疑わなかった人だ。
真意は神さまにだけある、否定する側にも、否定される側にも真意はないということになると、誰も殉教することはない。しかし、条件として、否定する側も、否定される側も両者ともが、真意は神さまだけにあると言わなければだめだ。
上を見ること、それにしても、上を見ながら降りることだろう。引きあげられる御手にゆだねて。