妖怪との出会い


おぉそうだと思いたち、中川明師の本を読み返す。
昔、一回読んだんだけどどうだっけと思いつつ。>ケロさん
戦後のカトリック教会分析、なるほどなことが書かれてあります。

妖怪の棲む教会―ナイスを越え教会の明日を求めて

妖怪の棲む教会―ナイスを越え教会の明日を求めて

それから難題克服として、こんなことが書いてある。

アメリカで勉強する機会があり、(...)D.ホーレンバッハ神父さんが(...)私に次のようにおしゃいました。
「日本の教会は大変でしょうね。経済的に日本と似た環境にある欧米は、日本とは全く文化的背景が違うし、文化的背景の似ているアジア諸国は、日本と経済的状況が全く違う。日本の教会は、どの国の教会からも、直接には学べないでしょうね」。
私の心に深く刻みつけられた言葉でした。
日本人の救いを考える時、私は、いつも、サラリーマンの救いがまず第一に頭に浮かびます。でも、このサラリーマンの苦しみの構造は、詳細は省きますが、個人主義の発達した欧米の賃金労働者のそれと全く異質なのです。企業が絶対的で、それに無条件に服従することが当然とされる日本のサラリーマンの苦しみは、欧米で展開された神学や司牧手法では対応できないのです。どんなに素晴らしい薬でも、水虫に目薬を塗っては仕方ないのと同じです。P26

このまえ会った大学生Jちゃんが「高校生のとき、日本の企業戦略に学ぶって課で≪トヨタの5ゼロ運動≫(たしか5だったと思う)を例に勉強したんだけど、日本人ってすごいよね、フランスのような仕事管理じゃぜんぜんだめだと思ったよ」と話してくれた。ま、それだけに人間管理のプレッシャーもすごくてシンドイんだよと付け加えておいたけど、そんなふうに外から学ばれているんだと思うと、なんだか不思議な気持ちになった。
日本、アメリカにつぐ経済第二位国って前置きされるたびに、なんだかよくわからない哀愁を感じてしまう。東京にも住んでキャピタルがどういう街なのかも知ってる、でも、自分の深い記憶にはいつも、川沿いのバラックとか、近くの銭湯とか、昼間でも立ち飲みしてるおじさんたちの酒屋とか、細い路地を通って裏山の竹やぶとか、もう一山超えて海の手前に広がるマツダの工場とか、おばちゃんちのうどん工場とか、牡蠣うちの寒いとことか、そういうものが沈んでいるんだ。経済大国ってなんだろ。
そして、我らの教会が経済大国第二位の国のそれだからって、ぜんぜん関係なく、彼女は謙虚に穏やかに存在しているだけなのだ。
とにかく・・・
中川神父さんは「妖怪」ともっと出会いなさいよ!とお勧めになる。
何かしら、うぅと思うもの、何かしら、コワっと思うもの、何かしら、ヤダって思うもの、それを「Vulnerability(脆さ)」*1に入る危険なステップとし、それが「必須」なのだよと言う。パウロの「わたしよわいときにつよい」思い出します。
おもしろいねー。この書のタイトルは「妖怪の棲む教会」ってわけだけど、妖怪が棲んでる教会、怖いねーってブルブルふるえてる書ではなくて、もっともっと妖怪と出会えばいいという書。
目が覚まされるし、サラリーマンへの中川神父さんの眼差しがとっても感じられる。とくに上記の引用を読んだときまったくそのとおりだと頷いた。と同時に、ここは実際、神学的考察に入るとき、経済問題の霧におおわれた部分をどう払拭するかにもよると思った。それはまったく(経済問題を)関係のないこととしてというのではなく、その関係にきちんと位置を置きながら、どのように霧が晴れるのを待つか?というか。言ってみれば、分析は聴取と関係すると思う。超越経験は産出するものではなく、受容するものだから。
とにかく、この研究は参考書として引用させていただきます。

*1:Vulnerabilityは人間の弱さにしか使わない語、物が壊れるとか弱いとかには使わない