祈る木 ③

karpos2005-12-21



二匹の動物のむこうに、羊飼いが寒くてうずくまってる。
昨日の天使の反対がわに、この動物たちがいる。
おもわず、馬小屋と書いたけど、
La creche、「うまや」としか言いようがない。
こういうのがいわゆる、
Traditions(複数形!)というわけなんだろな。
誰が、どうしてはじめたか、はっきりしないけれども、
人々の口々に、そして手によって伝えられて、
今、わたしの口にある、わたしの手にある。
こまったものだ、
でも、それも嬉しい。
あちこちの「うまや」を見てまわる。
うちは、アルカバスの安ポスターを飾ってる。
それなりに凝ってみた。


というわけで、昨日のつづき。

手は、祈りを語ることができる。タイプライターを打ったり、犂の刃を研いだり、忙しく手を動かし、働いている時の手は、念祷の時のとは違う。祈りの時、人とその周りの何かの仕事をつなげ続けることができるだろうか?これまで、何度となく、内面性は、手による詩と、説明されてきた。インドや中国のイコノグラフィの中に、菩薩の所作があるが、それはつまり瞑想である。座った人の膝の上に置かれた両手、一つの手の上に、もう一つの手が。手のひらが、上を向いていたり、両手が合わさっていたり、さまざまな所作がある。それは声のようなものだ。祈っている手は、声の音色に似ている、また、神に向かって話すための別の方法でもある。キリスト者のそれは、身体に、十字架のしるしを描くようなもの。信じる者を、主への奉仕へと導く儀式を生む。両手を合わす、それが、神の手の中にすっぽりと包まれるために。両手は組まれる、まるで、目に見える対話者を持たない懇願を一つに集めるために、その手が動き回るこの世界から自由になるようにと。両手は上げられる。「命のあるかぎりあなたの名をたたえ、手を高く上げ、祈る」(詩編63.5)。両手は、受難の時のように、力を落とす、譲歩を断わるパンとぶどう酒の奉げのために*1。「魂を自分の手のなかに置くことになる」(ヨブ13.14)。あなたのみ前に、それを置く、Symeonはこう忠告する。後悔の念のなかで、手は、これまであなたがした悪について語るだろう、手をあなたの後ろにしなさい、あなたは、憐れみの裁きの前に連れて行かれる*2。これは劇か、それとも芝居か?いや違う、これは説明できるすべてのこととしての、神の前での真実。「感受性は概念をもたらす」。Philoxene de Mabbougは言う。「身体は、魂をひき起こし、また知解する力にとっての先なるものである」。手は、そのなかに、日常のさまざまな知をたくわえている。優しさと、決して名のることのない苦しみを知っている。また、手は、なぜ知解が、まだ、あるいは、まったく語彙を持たないかを語ることもできる。手は、何もないものでしか、つまり、空でしかない。とはいえ、それは欠落を意味するのではない、それは、信への熱望、あるいはその確信を意味している。


所作の言説


「私たちはどのように祈らねばならないのか?−多くのことばを使うことはない」。Macaireはこう答える。「両手を上げ続けているだけでいい」*3。空間全体に「生きたなにか」を探すために、手を上げ祈る人は、人間の甘ったるい優しさや、何かを彼に従わせるような考えをつかむような、巧みなことばを用いることはない。しかし彼は、どのように、人間の考えの網という限界の中で、神に近づいていくのだろう?人間の言語のなかで裁たれた着物をはぎとること、だから、彼はそこにとどまる。そこには、知る貧しさ、彼が望むゆたかさがある。彼は、魂が身体言語という暗黙の状態にある、その肉体的な警戒心のなかにとどまる。出血を患う女が師の服に触れようとする、罪の女が、主の足を、芳しい香油でぬぐう、目の見えない者が、ひれ伏す。
Michel de Certeau, La faiblesse de croire, paris, seuil, 1987, pp.33-35


思わず、じっと手を見る。

*1:Maxime de Turin, Patrologie latine 57, 342

*2:Catecheses 30.7

*3:Patrologie grecque 34,249-250