祈る木 ④

karpos2005-12-22



天使、羊飼い、そして主役の登場。
ヨセフ、マリア、幼子イエス


パリ・ノートルダムの内陣のまわりは、
エスの生涯が彫刻で描かれている。
一般の信者は昔、この内陣に入ることができなかった。
そのかわりに、そのまわりを取り囲む彫刻を見て、
イエス・キリストの生を学んだ。
文字を読むかわりに、絵画でその物語を学ぶ。
写真の上方に、そのイエス誕生場面の彫刻が見える。
去年までは、家みたいなのを建てて、
上方の彫刻は隠し、それと関連づけることはなかった。
今年のは、それはそれで、面白いし、納得。
先人たちの幼子誕生への思いの跡。


というわけで、今日もまた、つづき。

どうして、「そんな多くのことば」がいるのか?おなかに宿った子どもと話すため、母親にはことばはいらない。からだが知った以上のことを、夫婦が話すことはない。考えや、前置きや、無駄な演説を生み出す無意味さ。身体の祈りが、委ねのうちに休息を見いだすという、その強さ、その解放された在りよう、祈りは探すことであり、待つことである。それはまるで、病人の横に座るってみるようなもの。ちょっとした仲たがいの後、小さな振りを示してみるようなこと。もしも祈りが頭でなされるようなら、その祈りは、とっても高い、何かしら主張を始めるだろう。それはもっとも真実なことなのか?そういう祈りは、自分の祈りこそが普遍的だと言うだろう。それはほんとにそうなのか?祈りは、神のことをすごく考えるだろう。けれど、そういう祈りは、神のことをよりよく話せるのか?身体に与えられた謙遜な祈りは、まったくの神からの賜物。「これがわたしのからだ」、これは、まるで舳先のように、心のほとばしりよりも先にいく。いつも、希望であり、放棄であり、そして、よく整えられた、しかし不平等な考えがついていく。たぶん、はじめにことばは足りないはず。ことばは遅れるから。しかし同時に、ことばが足りない日もやって来る。ことばは使い尽くされるから。祈りの人には「ことばはない」。−あるいは、もっと単純に言えば、あらゆる傲慢さから剥がされるということか。彼の苦しみのような、愛のいのちにつながれながら。「愛している」。「あわれんでください」。「主よ、来てください」。心のさざめく音が、身体の沈黙のなかに。


「祈りのなかには、あらゆる所作のかたちがある、ある時は、おなか前で手を組み、ある時は、手を合わせ、また腕組みをする。ある時は、立ち上がり、またひざまずき、膝を組み、またその足を組みかえる」*1。どれも十分じゃない。それぞれに意味はある。しかし、それらがすべてを言い表すわけじゃない。言語において(伝達活動としての言語)、たった一つのことばが、精神(心)の動きそのものを描くために、他の何かを言い表せることがある。この祈りは、道行きそのものである。祈る人は、貧しい。彼は、自分の所作によってのみ、その所作を目覚めさせてくれる生きているものに従っていくことができる。祈る人は、それを望む場において、彼自身の身体をかたちづくる、が、と同時に、いつももっと先に行こうとする。祈る人は、けっしてつかむことができない神を、手探りで探している、その合わされた手で、その上げられた手で。祈る人は探す、最初の出会いから後、不在となっている神を。祈る人は、ほんとうにゆっくりと、ある所作から、次の所作へと移行する。祈りのなかで、少しすすむ。まるで、巡礼者が、さまざまな歩く姿勢を生み出したり、それを繰り返したりするように。


専門の工員が、よく、ある一つの仕事のために、ある決められた動きを繰り返すが、その動きは必ずしも、彼らの仕事を表しているわけではない。しかし、その仕事そのものを表しているわけではなくても、彼らは、その仕事の人「である」。同じように、祈る人は、ある決まった循環を繰り返す。その循環は、閉じることがない。こういう状態のなかで、彼は、かわるがわる、そこに自分を投入し、そこに休息する。まるで、あちらこちら歩く時のその一歩に、彼の身体全体をかけているようなものである。一瞬の後の、一瞬。彼は、この一歩の他に、することがない。しかし、その一歩の後、他のもう一歩が従っていくのである。この一歩が、祈りのリアリティ。そして、それがまた、前の一歩の足りなさを明らかにしてくれるのである。祈りは、外のことでは決してないが、と同時に、足跡の一つだけに同定されるものでもない。祈りは、その継起である。所作の一つの言説(un discours)である。もちろん、祈りは、神にむかって投げかけることば(les proles)によって成るものであることは間違いない。しかし、所作にあることば(des mots)、ある所作が、他の何かへと行くこの通過をよく観ることが必要である。この所作は、すべて瞬間なのであり、それは、出会いと剥奪が相次いで起こる場、内面性のうちにあるからである。所作が魔法にならないために、ことば(la parole)は必要である。このことばは、呼ばれることと静思することを生む。逆に、精神の偽りの捕え、あるいは、絶望と抽象的な走りにならないために、言語(le langage)は、いのちが根づき、ほとばしる、暗がりの身体に生成された、居所と顕現を要求する。居所と顕現、それはふつうの日常の仕事と愛情によって在り、この世界において、人と神との出会いへと引き合わせるところ。


だから、祈る人は、神にむかって歩いていく。その所作とことばの入った小さなバックと共に、彼は自分の謙遜な巡礼をつき従っていく・・・つづく
Michel de Certeau, La faiblesse de croire, paris, seuil, 1987, pp.


祈る人は、探す人。神を探してやまない人。

*1:Francois de Sales, Oeuvres,t.14,p.237