祈る木 ⑤

karpos2005-12-23



この写真なら、
内陣の外側、周回廊の壁にほどこされた雰囲気が、
もっとよく見えるかな。
廻る祈り。
回廊を黙って歩いて、祈る。


時々思い出すんだけど、
友がわたしに話してくれた話。
彼女はある大きな仕事を終えて、
心身ともに疲れきった後、
祈りの家に行った。
そこには十字の水路があって、
彼女はその周りを廻った。
それは、まるで十字架の周りを廻ってるようだった。
何度もそこを廻り、
廻り終えたとわかったとき、
すべての疲れが終わっていたことに気づいた。
そう言う彼女の顔が、どれほどその解放感に光っていたことか。
十字の水路の周りを一人廻る、彼女の姿も、なぜだか見えるような気がする。
人が神と出会っている。


つづき・・・

だから、祈る人は、神にむかって歩いていく。所作とことばの入った小さなバックと共に、彼は自分の謙遜な巡礼をつき従っていく。しかし、このように見ていくと、この道のりにおいて、ある姿勢や歩みが継続するということは、一つ一つの姿勢を否定することになる。いいえ、神はそこにはいない。他にいる。いつももっと遠く、ほかの違うことばを言い、ほかの「態度」を摘みとりながら。所作は、何か絶対的な位置の決定を意味しない。とはいえ、何か単に出発点だけを意味しているのでもない。それは、すでに迎え入れられ、答えており、と同時に、願い求め、待っているのである。それは、今まさに、まだ探さねばならないものをつかんでいる状態にある。祈る人は、それ以外のものがつき従っていくような、自分の所作のなかに居る。神は、すでにその中に来ている。すでに高いところから降りている。その栄光のうちに、すでに自身を明らかにしている。それで、彼は自分の身体的な語彙一つ一つの表現とともに、こう言うことができる。神は、そこにいる。祈る人は、起き上がる、旅立つ、行く、神に向かって走る。しかし、また、彼は神のうちに居る。彼は、その空の両手で神を手に取り、その開かれた両手で神を受け取り、自分の身体という小さな部屋に神を迎え入れる。


もし、祈りが、その向こうへの身体的な旅だとしたら、祈りは、まさに、五感を含みながら、現在という瞬間のリアリティを識っているということになる。また、所作の連続は、繰り返しの足取り、ということになる。旅は、大きな教会の内陣の後ろ、周歩廊で明らかにされ、祭壇の周りによって成就される。すべての歩みは、現存を語る。その現存に同一するものはなく、聖なる、そして決定的な場というものはけっして置かれえない。瞑想は、歩み続ける。まるで、エリコの町の周りを廻るイスラエルの行列のようなもの(ヨシュア6)。町の廻る行列は終わらない、しかも、町の壁を突き抜けることはできない、つまり、超越の壁を通り抜けることはできないのだ。行列は、廻り進む。その中心に捕えられながら、しかし、その中心を捕えるのではなく。行列は、中心の周りを廻る。その軌道を取りながら。しかし、行列は待たねばならない。繰り返しと廻るというある形のもとに在りながら、そしてまた死とともに在りながら。「7日め」に、壁は、砕け落ちる。復活したからだの目もくらむような魂において、神が自分自身を与えるという天上の戸が開くのである。


祈りの空間


祈りはまた、ある環境をも抱く。祈りは、さまざまなものに取り巻かれる。所作の表現、その休息、つまり、本や、イコン、十字架、聖人の遺物、絵画・・・
Michel de Certeau, La faiblesse de croire, paris, seuil, p.36-37