祈る木 ⑥

karpos2005-12-24



祈りにおいて、そこに置かれた「もの」はからだの一部、延長。
わたしのまわりにはいろんなものが置かれているけど、
自分が置いたものもあるし、
はじめからあったものもあるし、
それとわたしがどう絡み合ってるか、
祈りの生活には、
かなり本質的なことになる。
祈りの家に招き入れられたとき、
なにかしら肌触りを感じる。
誰かが、たしかに、そこで祈っていたとわかるということ。


つづき・・・

祈りの空間


祈りはまた、ある環境ともいえる。祈りは、さまざまなものに取り巻かれる。所作の表現、その置かれた雰囲気、つまり、本や、イコン、十字架、聖人の遺物、絵画、たぶんメダイや、小さな祈りの部屋をも含め、それらは完全に、まるで「ひざまずき台」と同等のものなのである。あるいは、ヨガで用いられるヤントラ、ラマ教で用いられる祈りの小屋、小さな鐘や、敷物もそうだ。それらのものは、みんなそう、でも、それは結局、所作の一部分なのではないか。その使いみち、手をそこに置くためのもの、手を支えたり、手の延長であったり、あるいは、手を包み込むものかもしれない。それらの物は、ある動的なものや、身体という機能によって定義されるのである。物それ自体、さまざまな物のなかでも、ある一用語でしかない。祈りは、いくらかの要素が相互的に造り合う、関係のミクロコスモスを建てる。まるで建築のようなもの。料理人が、調理場であちらこちらに駆け回りながら料理するとき、調理場の形態が彼らの動きにちょうど上手く適合しているようなもの。この空間は、動きによって、また、さまざまな所作が、上手く、近く、合さることによって、有機的空間となる。それが、祈りの象徴的なリアリティであり、学者が言うところの「人間宇宙(anthropocosmos)」*1。「十字架による祝福」と、Philoxene de Mabbougは言う。「祈りたい者は、手に福音書を持ちなさい。そして、あなたの目を福音書に落とし、あなたの心もそこに置きなさい。地面に座るのではなくて、十字架の前に、あなたの足で立ちなさい。一章読み終えたら、福音書を前に置き、何世紀にも渡って、隠された神秘をあなたに黙想させ、あなたに読ませてくれる方(かた)に向かって、その前で10回、感謝をささげ尽くすまで、ひれ伏すこと。パウロの神のことばによって(コロサイ1,26:世の初めから代代にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされた)。あなたが神の前で行う、この外的な崇拝のおかげで、あなたの心のうちに、内的な崇拝が生じる。つまり、それは、肉としてのある一つの言語が、祈りそのものを説明できない、感謝の祈りの在りさまなのである」*2


祈りは、その所作の絡み合う網状のなかにおさまっていて、そのすべての事象によって、神との対話を行う。身体(le corps)が、神聖なもの、聖別されたさまざまなものとともに、儀式(le culte)を象徴する。それらさまざまなものは「象徴的なもの」(symboliques)、ミクロコスモスという媒介(道具)(instruments)、所作のメタファー。神秘の秩序によって組まれた、果てしないパズルの中に身体の着生が行われる。それは、祈りの人に、場所としての神秘の、つまり、ある一地点のうちにあるという、ある場所を与えるということである。その場所こそ、それぞれの祈りの「中心点」。・・・つづく
Michel de Certeau, La faiblesse de croire, paris, seuil, p.37-38

*1:Mircea Eliade, in Eranos Jahrbuch, t. 19,1950,p.258

*2:Trqduit pqr P.Graffin, in l’Orient syrien, t.6, 1961,p.463-464