祈る木 ②
パリ・ノートルダム寺院の天使。
毎年、趣向をこらした馬小屋イエスの誕生場面が置かれる。
今年はなんだかシンプルだなぁと思っていたら、
背景の壁彫刻がそのまま見えるようになってて、
400年前のその彫刻と、現代の彫像が同時に見える。
それはそれで難しい配置だろうけど、
なかなか趣きがあっていい。
昨日の続き、
著者の紹介はこちら↓
http://www.jesuites.com/histoire/certeau.htm
哲学とか歴史の分野で有名らしい。
彼はイエズス会士で、86年になくなってる。
この本は、キリスト教の「信」「信じること」がもつダイナミズムと、
社会関係において発揮する事柄について語るが、
特に信仰告白が「脆さ」のもとに発せられるときの在りようについて描写される。
http://www.amazon.fr/exec/obidos/ASIN/2020604841/402-8779036-2424900
本の構成
四つのパートに分かれており、
- Lire une tradition 伝統を読むこと
- Prendre les risques du present 現在のリスクを取ること
- Penser le christianisme キリスト教を考えること
- Suivre "un chemin non trace" 《轍(わだち)のない道を》従うこと
- Lire une tradition 伝統を読むことは6章に分かれてる
というわけで、つづき・・・
祈りの所作
土曜日の夜、Arsene修道士は「太陽を彼の背中にし、両手を天に広げ、その太陽が彼の目の前に昇る時まで祈った。その間、ただ座ったけれども」。文学的にみると、彼は背中に落ちる太陽を「投げ捨て」、起きて、闇と戦いながら、まるで応答のように、光が、彼の開かれた手のひらをつかみに来るその地平線に向かって両手をあげて祈っている、ということになる。夜と朝のあいだ、高みと低みのあいだ、死に行くものと生まれるものの間、そこには待つという所作しかない、それは、欲望によって疲れた身体。これが祈りのうちにある人間の姿。まるで天と地の間にある一本の木のよう。何かを語る必要があるのか?十字架の木、夜の沈黙のなかにある不動の身体は明日、復活の栄光におおわれるだろう。それが、休息の時。
「人の子よ、自分の足で立て。私があなたに話そう」(エゼキエル2.1)。手を上げ祈る彫像(L’orant)は、だから、高い方に向かって「立つ」。昔、柱で苦行をした者(le stylite)は、その禁欲的な修行として、聳える柱の延長となるよう身体をつくった。つまりその身体は、神が彼にまで降りてこられるのを引き寄せる声なき叫びなのである。何かしらの間の何か、身体は世界の中心軸になる。しかし、神の呼びかけに答える祈りによって天に向かって投げ出すこと、生きた柱はいつも未完成なままだ。よく整えられた彼らであっても、それは、完成の時が来るための場を象徴するにすぎない。
神は同じく「そのなか」に居る。誠実に、天に向かって拡がる身体は、だから、その中心へと再集する、まるで、抱きかかえた子どもに対して女性がするしぐさのように。I.Hausherrによれば、ある日、彼は、ある種の革命的な変化を経験したと言う。それは、ある霊的司祭がその弟子に「あなたが祈りたい時、座りなさい」と言った日のこと。これは立ったままの「姿勢」がどうこうという話ではない、身体的内省の態度は、魂の飾りでも心理学的な注釈でもない。それは祈りなのであって、高みに向かって緊張することではない、それは祈りを起こさせるもののまわりが、集められることなのである。つまり、この集中においてこそ、決してそこに到達することができなくても、欲望が、身体的にその対象を取り囲むのである。東方教会のヘシュカスタイ(l’hesychast、神秘静寂主義者)の態度は、柱で修行した者(stylite)のように、決して所有されることのないある現存によって構築された。その態度が、祈りの内面化と共にあったかどうかを十分に言うことはできないが、それが中心に帰るという動きであったことは確かだ。敷物に対しての姿勢とか、手の位置、目を閉じることなど、同じように所作が心に向かって回心することを語っている。彼らはある確信に満ちた語彙を生んだ。身体の洞穴は秘儀のなかに誕生する神のためにつくられた、満腹することなく欲望を落ち着かせ、決してそれに属することなく人の心を捕らえながら。
神は、上に居て、内に居て、しかしまた目の前に居る。だから祈りは完全にひれ伏すことなのである。まるでかつてアブラハムが神秘的な訪問客の前でしたように(創世記18.3)、三人の博士がイエス誕生の馬小屋でしたように(マタイ2.11)、信じる者が「おん父の前でひざまずいて祈る」ように(エフェソ3.14)。昨日も今日も、数え切れない人々が、神がその現存を示したしるしに向かって、ひれ伏してきただろう。ひれ伏す者は、聖ドミニコ*1による名高い「祈りの13の態度」の一つに見を静め、ひざまずく。あるいは、歓喜のリズムに導かれるままに、スペインのカルメル会修道士は、聖体の前で歌いながら、手を叩きながら踊った、フランスの彼らの仲間の大きな驚きを受けながら*2。しかしそれがどうだと言うのだ。ヨハネの記述によるイエスの賛歌は、主、自身が、荘厳で宇宙的な踊りによって最後の晩餐へと導いているではないか。「恩寵は踊る、だから皆も踊りなさい。あなた方もわたしの踊りに加わりなさい」*3。手を上げ祈る彫像は「失われた身体」に祈る、懇願によって起こされ、崇拝によってひれ伏し、それはすなわち聖なる振り付けによって捕らえられたということ。
Michel de Certeau, La faiblesse de croire, paris, seuil, 1987, p.32-33