ラーナー

昨日の続きでラーナーを読んでる。
1979年、今から30年弱前の現代描写は今でも新鮮、そしてはっとさせられる。
キリスト教とは何か―現代カトリック神学基礎論

つまり、現代人は、むしろ神が義とされる必要はあっても、人間が神の前で、また神によって、不義から義とされる必要があるとは思わないのである。p.122

アウグスティヌスやルター、パスカルが生死をかけて問題とした義認の問題は現代の我々にはどうでもよくなっている。

現代人は、罪過と呼ばれるものを、人間の実存に一般的につきものの悲惨と不合理の一片とみなすのである。そしてこの不合理に対して、人間は主体ではなく、客体であると考えるのである。同ページ

30年近く経った現在はと言うと、もっと進んで「罪」の問題は無意識下に閉じ込められてその存在すら忘れ去られようとしているのではないか。義とされる必要があるなんてアイデアすらもう消えてしまったのではないか。そしてそのように忘却の彼方に押し込まれれば押し込まれるほど、奇妙な苦しみに苛まれるということになってはいないか。内省問題、こことも関係しそう。