永久欠番


今日11月2日は死者を想起する日。
すべての志を持ってこの世を去った死者は天にあげられているので、
昨日の諸聖人の日の祝いで十分なはずだが、なぜかこの死者の日がある。
なんと昔はまだ天に行く途中の煉獄に魂が留まっている人たちがいて、
その人たちのために祈らねばならぬので・・・と説明されてたらしい。
第二バチカン公会議以降、煉獄という名は消えた。
だからすべての死者を思い出すというわけだけれど、
うむ、死者を思い出すというのはどういうことなのだろう。



夕陽。


わたしはやはり、毎日の夕陽のなかに彼らがいると思えてならない。
毎日、夜が来る前に、彼らは光り輝く。
たとえ夜が来ても、我らに見えない向こうで待っている。
我らがこの地上で夜を過ごさねばならない時、
この輝きを忘れぬようにと、彼らは毎夕教えてくれるのだ。


Joseph Ratzingerがこう語る。

永遠をまとう死すべき者について。
神は現在のわたしたち、このまったき人間を知っていて、愛している。永遠は、わたしたちの現在のいのちのなかで成長するし、大きくなる。苦しみ、愛し、希望し、耐える、喜びを悲しみを、この時間を生きるわたしたちのからだにおいて、永遠の成長は行われる。今、わたしたちのいのちのなかで成長するすべてのものは、いつまでも消えることはない。不滅とは、わたしたちのからだにおいてわたしたちが成っていくもの。この世界とつながりながら、わたしたちのいのちの真ん中で成長し、熟するもの、それこそが「まったき人間」である。この世界にありのままあるもの、ありのままの苦しみ、それらはある日、神の永遠のうちに運ばれてゆく。それらはまた、神自身のうちにおいて、永遠に与る。永遠が、深い喜びでわたしたちを満たす。
Joseph Ratzinger(Pape Benoit XVI):Magnificat,novembre2005,p.43


結局、死すべきからだは今だし、永遠のいのちを宿しているのも今。
だから、不滅である。
今、このからだの中に起こっているありのままのいのちの成長は決して終わらない。
そら(宇宙)の掌のなか、
人は永久欠番
永遠の名としての・・・


街は回ってゆく、かけがえのない者などないと風は吹く、
このあたりが、まぁ、西洋キリスト教の時間的概念とどうなるかは?ですが(笑)、