銀貨

karpos2005-03-23


そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」と言った。そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした。そのときから、ユダはイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。除酵祭の第一日に、弟子たちがイエスのところに来て、「どこに、過越の食事をなさる用意をいたしましょうか」と言った。イエスは言われた。「都のあの人のところに行ってこう言いなさい。『先生が、「わたしの時が近づいた。お宅で弟子たちと一緒に過越の食事をする」と言っています。』」弟子たちは、イエスに命じられたとおりにして、過越の食事を準備した。夕方になると、イエスは十二人と一緒に食事の席に着かれた。一同が食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」弟子たちは非常に心を痛めて、「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。イエスはお答えになった。「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」イエスを裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、「先生、まさかわたしのことでは」と言うと、イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。」
マタイによる福音書26章14−25

今日は、オリゲネスの一節を。

エス自身、そして弟子たちは、結局のところ、イエスの神聖さと、行われた数々の奇跡だけを信じてたわけではないと言いたかったのだ。まるで彼が、人性にまったく属してなかったとか、人間の内にあって≪聖霊に反する≫ことを強く切望するこの肉をまったく取らなかったとか、そういうことを言いたかったのではない。そうではなくて、ある力――人性にまで、つまり、浮沈みのある人間性にまで降っていき、一つの魂、一つの人間の身体を取った――その力が、信じる者たちの救いに貢献したということを、彼らがたしかに見たということなのだ、その力は信仰の対象であり、と同時に、神の現実性である。彼らは確かに見ている、人性が、神性に属することによって神化されるために、イエスにおいて、神性と人性は抱き合い始めたことを。しかも、それは、イエスにおいてだけではない。この生活の仕方、つまりイエスが教え、イエスが神のために友情にまで、教えに従って生きた人と共にあるコミュニオンにまで、昇らせているというこの生活を、まさに信仰と共に受け入れたすべての人々において、これが始まっているのである。
Origène, Contre l'Ecrit de Celse--intitulé discours véritable,
185?-254?,III28

彼は、我らを上げるために、降る、もっと降っていく。
銀貨三十枚で、引き渡される。
彼のうちに、神性と人性が抱き合い始める。
裏切った者のうちにも、彼に出会った時は消えない。
・・・
写真:シャルトル北門の中央門。
この門から入る。