Ph3,3-8;Lc15,1-10

わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。
フィリピの信徒への手紙3章5−7

そこで、イエスは次のたとえを話された。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう」。
ルカによる福音15章4−6

子どもの頃、海で溺れたことがある。
浮き輪が手から離れた。小さな波が来たと思ったら、もう浮き輪に手が届かない。浮き輪がないと思ったとたんに焦って、頭が真っ白になった。あとは溺れるのみ。溺れているときなんか、何にも考えてない。ただ、海の中を上がったり下がったりしているだけだ。海水が鼻から口から入って、もう息もできない。

今こうして生きているのは、そのとき助けてもらったからなのだが、もしも見失われたままだったら、わたしはここにはいない。あれから何度も、海の底に沈む夢にうなされたし、この世に溺れることも体験した。もうだめだぁと思ったときにひょこっと救われる。羊飼いは大喜びだが、当の羊は、いのちからがら、冷や汗もの。

ずいぶん前に、わたしの友が、スキューバダイビング中、40メートルの海底で溺れた。浮き輪から手が離れたわたしの場合とはわけが違う。マウスが外れたのだ。友は奇跡的に助けられた。そして今も生きている。友は救われた体験を語ってくれる。それを聞くのがとても好きだ。何度でも聞く。何度でも話してくれと頼む。

一匹が大事。一匹の救われた歴史が宝。