「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。
ヨハネによる福音書10章1−10

彼は、
わたしが門だから、
わたしという門を通って、入ったり出たりする人が、
牧草を見つけるだろうと言っている。
彼は、わたしが門だと言う。
神の名によるすべての了解が打ち壊されるイエスの脆弱な身体性に、
誰が飛び込んでいくのだろ。
こんな危うい門を通って、どうして牧草が見つけられるというのだろ。
わたしたちはこの世界を出たり入ったりする。
門なんてどこにもないと思っているかのように、
門がありすぎてどこにも行けないと思っているかのように。
門の周りのデコレーションにうんざりしてしまったかのように。
直接、まっすぐに、真正面から、
彼の門の前に立てなくなっている。