暗闇

karpos2005-04-20


エスは叫んで、こう言われた。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。」
ヨハネによる福音書12章44−50

暗闇にとどまることがないように、
エスは来た。
彼が去ったあと、我々は自分たちの時代を生きてきた。
今もこうして生きてる。
彼が去ったあと、共同体の「世話」がペトロに託された。
そして、新しい教皇は誕生する。
ベネディクト16世。ジョゼフ・ラッチンガー。
共同体の「生」はこのように継承される。

Homelie du cardinal Joseph Ratzinger,
Le lundi 18 avril 2005 
コンクラーヴェ開始のラッチンガー枢機卿によるミサ説教より引用。
http://www.vatican.va/gpII/documents/index_fr.htm

教会における奉仕職、カリスマは、復活し、天に昇られた主からの賜ものです。信仰が成熟するということと神の子に関する理解は、そういうわけで、キリストのからだに一致する条件と内容のようなものとなります。また、キリストのからだの成長に共同体として参与することは、すなわち、主とともにあるコミュニオンのなかで、世界の変容にも参与することになります。
「キリストの成熟さ」に向かう道。イタリア語のテキストは少し単純化しています。ギリシャ語のテキストでより詳しく見ると、そこには「キリストの充満する背丈」とあります。ここにこそ、私たちは現実に、信仰において大人であるよう呼ばれているのです。信仰において、未成年のように、子どものまま留まっていてはなりません。信仰において何に関して大人であるべきでしょうか?聖パウロはエフェソの信徒への手紙の中で「風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすること」(エフェソ4.14)に関してと言いながら答えています。
私たちは、この数十年間、どれほど風のように移り変わりやすい教えを知ったでしょうか。どれほどのイデオロギーを、思想の流行を…知ったでしょうか。キリスト者の思想という小さな舟は、しばしば、その波によって揺さぶられてきました。そして、ある極端から、他の極端へと投げ捨てられてきました。マルクス主義から自由主義へ、そして超自由主義へ。共同体主義から急進的な個人主義へ。無神論から宗教神秘的な流行へ。不可知論からシンクレティスム(諸派統合)へ。そして、これらはまだまだ続くのです。人間の嘘や欺瞞、そして間違いへと陥れる巧妙なやり方について聖パウロが言ったことが実現するがごとく、毎日、新しいセクトが誕生しています(エフェソ4、14)。教会の信仰宣言(クレド)に基づいた、はっきりした信仰をもつことは、しばしば原理主義者のレッテルを張られます。また逆に、相対主義者たち、―つまり「風のように移り変わりやすい教え」を持たせるままにする―こそ、私たちの時代に唯一尊厳をもった態度であるかのようにみられています。相対主義の独裁者は―彼らは決定的なものを何も知らない、彼らは最終的基準を保留にしながら―まさに、彼ら自身のエゴと欲望を築き上げようとしているのです。
私たちは、そうではなくて、ある他の測りを持っています。すなわち、神の子、まことの人間という測りです。彼こそが、ほんもののヒューマニズムの測りです。あるときまるで流行の波ようにやって来る信仰は「大人」ではありません。大人であり、熟した信仰は、キリストとともにある友情のなかに深く根ざしているのです。この友情が、すべての良いものに向けて私たちに開かれ、正しいか間違いかを、また欺瞞か真理かを識別するための基準を与えてくれるのです。これが、私たちが熟させねばならぬ大人の信仰であり、この信仰へと、私たちはキリストの群れを導かねばならぬのです。この信仰、この信仰だけが、一致を生み出し、愛徳のなかで明らかにされます。聖パウロは、私たちに美しいことばを与えてくれました。波に激しく揺さぶられる子どものような者たちという、この絶え間ない波瀾の対立のなかでの、この美しいことば。愛徳のなかで、真理を行うこと。これは、キリスト者の生活において基礎的なあり方です。キリストにおいて、真理と愛徳は交差します。私たちもキリストに少しずつ近づいていくこの途上で、私たちの生活においても、真理と愛徳は一つになります。真理のない愛徳は盲目です、愛徳のない真理はまるで「シンバルが響き鳴る」(1コリント13,1)ようなものです。

参照:エフェソの信徒への手紙4章1−16(第二朗読として)
1:そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、2:一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、3:平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。4:体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。5:主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、6:すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。7:しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。8:そこで、/「高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、/人々に賜物を分け与えられた」と言われています。9:「昇った」というのですから、低い所、地上に降りておられたのではないでしょうか。10:この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。11:そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。12:こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、13:ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。14:こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、15:むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。 16:キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。

これは写真。
http://www.la-croix.com/illustrations/Multimedia/Actu/album/ratzinger/
諸宗教との対話、キリスト者間のコミュニオン、第二バチカン公会議の精神を遂行、司教間の連帯・交流、これらはもちろんB16の路線。彼は神学者だ。どんなふうに聖書のメッセージを語ってくれるのだろうか。彼がどんなふうにこの世の荒波でカトリックという舟を舵取ってくれるのか、実にそれはロマンでもあるのだ。世界のおじいさん、おばあさんも負けてはいられないっすよ。
78歳、現役!