ついて来る

なおしばらくの時がたてば レバノンは再び園となり
園は森林としても数えられる。
その日には、耳の聞こえない者が 書物に書かれている言葉をすら聞き取り
盲人の目は暗黒と闇を解かれ、見えるようになる。
苦しんでいた人々は再び主にあって喜び祝い 貧しい人々は
イスラエルの聖なる方のゆえに喜び躍る。
暴虐な者はうせ、不遜な者は滅び 災いを待ち構える者は皆、断たれる。
彼らは言葉をもって人を罪に定め 町の門で弁護する者を罠にかけ
正しい者を不当に押しのける。
それゆえ、アブラハムを贖われた主は 
ヤコブの家に向かって、こう言われる。
「もはや、ヤコブは恥を受けることはない。もはや顔が青ざめることもない。」
彼はその子らと共に 民の内にわが手の業を見てわが名を聖とする。
彼らはヤコブの聖なる者を聖とし イスラエルの神を畏るべきものとする。
心の迷った者も知ることを得 つぶやく者も正しく語ることを学ぶ。
イザヤ書29章17−24

エスがそこからお出かけになると、二人の盲人が叫んで、「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と言いながらついて来た。
エスが家に入ると、盲人たちがそばに寄って来たので、「わたしにできると信じるのか」と言われた。二人は、「はい、主よ」と言った。そこで、イエスが二人の目に触り、「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われると、二人は目が見えるようになった。イエスは、「このことは、だれにも知らせてはいけない」と彼らに厳しくお命じになった。しかし、二人は外へ出ると、その地方一帯にイエスのことを言い広めた。
マタイによる福音書9章27−31

浮いている世の絵。
3世紀も前の世ですでにポスト・モダンを生きていたとは。
いや、正確に言えば、
モダンを知らない世界がすでにポスト・モダンを知っていたのかってこと?
いや、知っててあえて、モダンへと身を投げ出し、最終的には呑み込んだか。
どれも違う、なにも言えてない。
一人一人の顔はまるでクローン人間のように同じ。まるで、人間の顔(格)の違いには興味がないとでも言わんばかりに。なのに、不思議だ。身体からかもしだす風情は、ひとりひとりの歴史を明らかに物語っている。曲がった腰のなぜだかの重さ。
そして、彼らの同じ顔から放たれる視線。同じ顔なのに、違う視線。
満開の桜のもとでは宴会。しなやかに舞う男、女。飲みすぎて吐く者、それを介抱する者、子どもの甘えをいやす者、宴よりも議論を楽しんでいる者、宴の毛氈にまさに座ろうとする者、宴の賑やかさとはまったく関係なくシダレ柳に触れる者、空をあおぐ者、小さな川のせせらぎに手をくぐらせる者、知らん顔をしている者。
それぞれが、それぞれに、生きたいように生きている、一枚の絵のなかに。
主と客は抹消され、内と外のみがただただ相対を繰り返す。
宴の内の者、宴の外の者。おそろしくコンテンポラリーな絵画。
しかしまさに、これがわたしのいる世界、わたしの見ている世界、わたしの生まれた世界。この世界から逃れられるわけじゃなくて、この世界にうずくまるわけじゃなくて、この世界からもう一回、生まれる、そういうことだと思うのだけど。
それがわたしが彼について来るということだと思うのだけど。
http://www.rmn.fr/monde-flottant/05parcours/index.html