砂の上に

その日には、ユダの地でこの歌がうたわれる。
我らには、堅固な都がある。
救いのために、城壁と堡塁が築かれた。
城門を開け
神に従い、信仰を守る民が入れるように。
堅固な思いを、あなたは平和に守られる
あなたに信頼するゆえに、平和に。
どこまでも主に信頼せよ、主こそはとこしえの岩。
主は高い所に住まう者を引きおろし
築き上げられた都を打ち倒し
地に打ち倒して、塵に伏させる。
貧しい者の足がそれを踏みにじり
弱い者の足が踏みつけて行く。
イザヤ書26章1−6

「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」
「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」
マタイによる福音書7章21、24−27

まわる、まわるよ、時代はまわる。
めぐる、めぐるよ、季節はめぐる。
くるりくるりと、世界はくるり
いえ、ほんとうにそうなのでしょうか。時間循環加速機能はそれほどまでに確かなものなのでしょうか。枯葉が木枯らしに吹かれ、ハラリ、ヒラリと落ちるのを、ただただ見つめるだけで、ただそれだけでわたしは終焉をむかえることができるのでしょうか。
たとえそれで、えも言われぬ、誰もがため息をつくような美しい画を描けたとしても、この儚さが消え入るわけではないのではないでしょうか。
明日はその、浮いている世界の絵を眺めにゆくわけです。浮世絵。
http://www.rmn.fr/monde-flottant/
砂の上を、探しながら、歩きながら、迷いながら、頭をふりながら、胸を叩きながら、泣きながら、時間循環加速から引き剥がされていけるように、考える、だから、こうしてある(生まれさせられた)わけです。