こどもの日

夕日に鯉のぼりがヒラヒラと。
「高校生大志抱かず」、という見出しの朝日新聞記事2007年4月26日付を見て大学生とディスカッションをした。
「偉くなりたい」と思っている割合が他国の三分の一程度の8%。このグラフを見て、ほんとうのところはどうなんだろうかと知りたかったから聞いてみたのだけど、ほんとうのところもそうらしかった。でも、よくよく聞いてみると、「偉くなりたい」という言葉自体、すでに、単一な意味ではなくて、「偉い」という言葉が非常に複雑な社会を反映しているということがだんだんとわかってきた。「頭がいいから偉い」とか「大きな会社で働いているから偉い」とか、そういうことを「偉い」とは思わない、と言ってくれた人がいた。一般的に「偉い」と言われている人たちを尊敬することができないから「偉い人にはなりたくない」という気持ちになってくる、と言ってくれた人もいた。「常識的に偉い人になりたい」とか。「ふつうに暮らしたい」、「ふつうって何?」、「朝起きて、仕事に行って、帰って寝る」。「Simple is best!」、「それなに?」と聞く留学生。
「ふつう」がいいんだ、ってわかる人もいえれば、わからない人もいた。「ふつう」のどこがいいんだ?と。
そういえば、実家の母はいつも「ふつうがいちばんいいんだ」って言ってた。不思議だ、そんなことを思い出した。じゃあ「あんたはどうなの?」って聞かれたら、わたしはどうなんだろうか。「偉くなりたいか?」「なりたくない」。やっぱり、そういうことじゃないんだな。「大きな組織の中で自分の力を発揮したいか?」「そうは思わない。自分の能力も知ってるから」。そう答えるだろう、昔も今も。この質問自体が、どこかオカシイんじゃないか。そして、そのオカシサについて、すでに日本の高校生は何かを知ってて、わかっているのかもしれない。
ちなみに「偉くなりたい」と答えた他国の%は、米国22%、中国34%、韓国23%、日本が8%。「大きな組織の中で自分の力を発揮したい」が、日本29%、米国35%、中国45%、韓国43%。
なんとすごいと思ったのは、「のんびりと暮らしていきたい」、日本43%、米国14%、中国18%、韓国22%だった。「のんびりと暮らしたい」。定年退職した老夫婦が「これからはのんびりと生きたいね」なんて言うのがちょっと前のフルムーンか何かの宣伝だったが、高校生も「のんびりと暮らしたい」。そういうゆたかな国になったということなんだ。「のんびりできない日本だから」「あまりにも忙しすぎるから」というのもあるかもしれない。だけど「のんびり」ということそのものからすると、それは雄雄しく余裕のある話だと思う。
「偉いと言われる人を見て尊敬できないから」という理由があったということを仲間と話していて、それは日本が成熟社会になったからだとコメントする者がいた。日本もここまで成熟したか、と。嘘ものじゃ、通じない。どれだけ偉くなったって、尊敬できなければ。。。
こういうことが言える若い世代が育っているって、それはそれで嬉しい気がする。
でも逆にそれは、ほんものを追求すべき時代が来たことを示す、今は厳しい時代であるとも言える。何がほんものなのか、直感的にわかってることが、実現できないことであればあるほど、その葛藤も大きくなる。意識しはじめる、ということから全て始まるのだけど、意識したとたん、受容するための耐久も不可欠となるから。
若者は社会の鏡だっていうけど驚かされる。彼らがどれほどこの社会を受けとめているか。ディスカッションしてて感じたことは、日本社会が彼らの身体を貫き、浸透しつくしていて、そういう状態を、そのまま、ありのまま受けとめているということだった。思わず尊敬した。こんなふうに受けとめているのか。うまく言えないけど、それこそ、あんたたち偉いね、って思った。デリカシーなく「ほんとのところ、どうなの?」なんて聞いちゃう目の前の大人をも責めることなく。だから、あの後、つまりこの三日間、なんかわるいこと聞いちゃったかななんて思ったりしてたんだな、わたしも。
「やりとり」、やり(あげる)、とり(もらう)でしかキリスト教って伝えられないというなんとも知らない信があって、お互いしんどいけれども、そうさせてもらってる。