3月25日福音「キリストの光、光のキリスト」

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四旬節第5主日

3月25日(ヨハネ8・1−11)

エスのまなざし

 有名な「姦淫の女」の話。女は「姦通の現場で捕らえられた」とあるが、一緒にいた男はどうなったのだろうか? レビ記20章10節には男女2人とも殺すようにとある。もうどこかで石打ちにされてしまったのか。それとも、女 だけが見せしめに連れてこられたのか。とにかく人間のやるせない現実がえぐられたような今日の話。

 理由あって群衆の真ん中に女が1人立たされている。律法学者、ファリサイ派という身分の男たちが女をイエスの前に連れて来たのだ。その光景を想像するだけでも身震いがする。「宗教」の力。いや、この男たちの発する「力」が、宗教をこのようにするということか。ここは美しい神殿の境内なのにと思うと、何かしら矛盾さえ感じてしまう。

 実に、この力は女にではなく、イエスに向けられている。力どころじゃない、暴力にも似ている。

 もしもイエスが「モーセの律法は正しい」と言えば、その場で女は殺される。イエスはこの女を救えないということになり、彼らの勝利となる。あるいは、「モーセの律法は間違っている」と言えば、律法に反するイエスの方が即座に殺される。彼らの思うつぼだ。

 律法学者たちはこのどちらかの答えを待っていたのではないか。その答えの先にある暴力的な死をも、待っていたのではないか。

 破壊的な力の前にイエスはかがみ込む。地に近く、指が地に触れるほど近く、かがみ込む。何も言わず、黙って、背を向けて。

 しつこく尋ね続ける者たちの声を聴こう。愚かな、意味のない質問をたたみかけ、いったい何をしようとしているのか。闇がある。律法学者やファリサイ派という象徴に見られる―おそらくわたしの内にも巣食っているであろう―宗教の闇。宗教者と名のる者、他人事ではない。イエスはこの闇への感受性を身に帯びながら、神の光を透かすのである。

 彼は、どこにも書かれていない、誰にも思いつかない事を言う。身を起こし、彼らを見て、はっきり言った。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」これこそが神からの光のことば、天と地を結ぶ。彼の足元には地がある。「地に、地に」と繰り返す福音は、今、ここで、神の愛が本当に実現したのだと念を押しているように響く。

 忘れてはならないだろう。イエスは宗教の真ん中に生まれ、それを否定しない。しかしそれを新しくするということを。

 人々が去って往く光景は闇の力が天の父のゆるしに散らされていくようにも見える。誰が石を投げようとしたか、誰がどんなふうに去って行ったか、イエスは頓着しない。誰もいなくなって、この人を見る。

 残された女に向かって身を起こし「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい」と言った。このイエスのまなざしを今日わたしが知るなら、十字架の日に、光 を仰ぐのだろう。

原敬子=援助修道会)

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