典礼音楽


このまえタミエ(Tamie、http://d.hatena.ne.jp/karpos/20060420アルプス近くの観想修道会)に行った時、そこでの典礼音楽のためにとっても現代調な音楽を用いられているのにびっくりした、びっくりしたというのは、その用いられ方があまりにも素晴らしく「ばっちグー!」だったことにびっくりしたということ。
詩編とかを現代調なメロディで歌うんですよ、難しい、けど、ちゃんと祈りになってる(って言い方へんかな、ま、いいや)。
で、ちょうど、復活祭の食事ではお喋りしても良かったので(それ以外はすべて沈黙、そして、復活祭といえでも、そこはベジタリアンなので肉はなし、関係ないか)、そこに来ておられた音楽主幹の修道士さんに、私のこの率直な感想をお伝えしてみたところ、素晴らしいコメントを返してくださった。
つまり、典礼にも日常と非日常があるということ。
日常の典礼のためには「ちょっと難しめの現代曲を積極的に使う」。簡単なものだと修道士さんたちが飽きちゃうから。これも一種の鍛錬になってる。
そして、非日常。これは祝祭日の典礼。たくさんの人が集まるそういう祭儀の時には、「美しいメロディの食いつき易い曲を選ぶ」。みんなが一堂に一致し、メロディが入りやすく盛り上がれるもの。
音楽は持続であり、日常も持続。この持続性の中に、持続の音楽をどのようにオーガナイズするかが鍵。
さすが、です。
音楽は持続で、日常もそう、ってところが渋い。
ま、私は、序破急の国で育った人間だから、「音楽は持続」って聞いただけでうっとりする。
たしかに、音楽(芸術だねつまり)は、鍛錬で、鍛錬のレールからそれたらもうお終いなんだよね。修道士さんたちは、一日に7回の「祈り」に生きてるわけだから、そこで飽きたらもういのちが枯れるってことになる。
飽きちゃだめだー。
しかし、飽きないために現代曲するって話、初めて聞いたけど、新鮮でとってもよろしいです。
だいたい楽譜を読むこと自体、現代曲になると骨折りになる。しかもそれをちゃんと歌うためには練習せねばならぬ。ま、歌ってもらって曲も日の目を見るわけだから、そこをなんとかーって感じだけどね。しかし、日本にも典礼現代曲、けっこう眠ってるはずなんですよね(涙)(エリザベト音大あたりではけっこう作られてる、と同時に問題は、そこで作られてるのはミサ曲だから、ミサ曲となると祝祭日、となると練習が足りずに結局できない)。
そうだ、思い出した。
たとえばパリ・カテドラルで雇われ聖歌隊が素晴らしいプロの歌声で、超現代調なミサ曲とか歌われたりすれけれど、ほんとにかっこいいし素晴らしいが、どうも違和感を感じていたのはここに理由があったんだ。つまり、それでは会衆がまったく参加できず、取り残された状態になってしまうから。また、フォーク・ミサとかでバンドの皆さんが楽しそうに演奏されるのも、盛り上がって「楽しそう」と思うんだけれども、どうもそれにも入り込めないと思ってしまってたのは、フォーク・ソングとミサの流れ(テンポ)がかみ合わないから。
教会で典礼音楽をどーしましょうと考える場合、この持続性、日常、非日常がどういう組み合わせになるかを考えてみるのも、急がば回れでよろしいかも。これらの問いはすべて、生活の中で典礼(祈りの時、個人の、共同の)の問いとなり、スピリチュアリティに関わる話になるんですね。
そういえばタミエから帰り詩編を地道になんとかできないかと思ったんだった・・・