聖書を読む


id:momolineさんのブログから・・・
「聖書を読む」という問いについて考えておられる。
難しい問いだけど、こういう問いかけをしてくださることに感謝!
http://d.hatena.ne.jp/momoline/20051216/1134754402


もちろん聖書は、テクストである。
わたしはそのテクストに向き合い、わたしとテクストとの間に特別な世界を築く*1
わたしの読みの力量によって、この「特別な世界」は変幻自在。
読みの力量とは、語学(国語)能力*2から、歴史的知識から、
分析力から、思索力から、読みにかける忍耐力から、なにからなにまで、
すべて、力量として推定可能である。
聖書学で言えば、どういう系統のどういう方法論が専門ですと言えば即座に推し量られる。
音楽の世界でもただ弾くだけの人と、方法論を学んだ人とでは出てくる音が違う*3
演奏と解釈は、同じくInterpretation。
力量は問われる。


しかし、どうなんだろ。
聖書はどんなふうに演奏されたいのか?
どんなふうに読まれたいのか?解釈されたいのか?


聖書の「読み方」とキリスト教あるいはキリスト教教育には大きな関連性があり、
さまざまな分類が試みられている。
どれも興味深いし、なるほどねと思う、現状分析は大切だし、すべき。


しかし、さらに問えば、
聖書はほんとに読むものなのか?という問いさえ出てきておかしくない。
聖書に照らされるとか、聖書に出会うとか、会うとか、聖書に思い知らされるとか、
文字だから読むんだろうけれど、でも、
聖書がずっと本棚にあった、という事実だけで、
これだけは捨てられなかったというだけで、
その存在そのものが、なにかを示すことだってある。


だから、どうなんだろ。
だから、こうして一緒に暮らしているってわけなんだけど。

*1:リクール風に言えば、私の前に「テクスト世界」が広がる、私とテクストの間の空間、世界。テクストで解釈されるその世界に住む

*2:日本語読解力とか、原語知識とか、ヘブライ語ギリシャ語他。

*3:さきほど書いた音楽のリクール引用は、自信がなくなったので撤去、訂正してお詫び申し上げます。