子供たち

karpos2005-05-21

エスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。

マルコによる福音書10章13−16

哲学者ポール・リクールが逝ってしまった。92歳。
http://news.google.fr/news?q=paul+ricoeur&hl=fr&lr=&ie=UTF-8&sa=N&tab=nn&oi=newsr
彼は、現代哲学において、
キリスト教実存主義に属するとも、人格主義に属するとも言われてる。
メインの解釈学は、この国の神学者は、誰もが一度は口にする了解。
「時間と物語」
「意志的なものと、非意志的なもの」
「他者としての自己自身」
「生きた隠喩」
この大きなな哲学者の思索を辿ること。
小さな哲学者たちの大きな仕事。
というわけで彼のひとこと。

ためらいとは、求められている選択である。(中略)一方では、私はためらいを未-決意と呼ぶ。意志作用のこの不完全さは、ときにはひどく苦痛に感じられる。私はそこにいわば自分自身の喪失を感じ取る。私は、何ものかであるということがないために、自分がまだ全く存在していないような不安に満たされる。ためらいのうちでは、私は幾つもに分裂しており、したがって存在していない。もしここで、私の存在そのものであるような可能性の発見と、この未決意の発見とを同一視するならば、われわれは大きな誤りをおかすことになろう。根本的な可能性は、選択によって打ち砕かれるような未決意などではなく、選択そのものが端緒を開く力なのである。本当の可能性とは、私が決意することによって、つまり実効的な企投によりながら世界のうちに諸可能性を開くことによって、自分のうちに開く可能性のことである。
P.リクール『意思的なものと非意思的なものⅠ決意すること』
滝浦静雄他訳、紀伊国屋書店p232