はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」
マルコによる福音書9章41−50

わたしの成長について考える。
L'intériorisation
内在化。
誰にも見えない、もしかしたらわたしにも見えない、なにかが、
どこかが、成長している。
なにか現実に引き起こされる「できごと」によって、
思いもかけなかった「ことば」によって、
わたしが成長する。
「できごと」、「ことば」、ときに痛いね。
内に起こっていることがらに、
耳をかたむけてみると、
小さな変化に気づく。
おそらく、一年前にはわからなかったこと。
十年前には、想像もしてなかったこと。
内なるわたしの成長を、ありのまま受け入れてみる。
成長って、増えるだけじゃなくて、
すっきり減ってることでもあり得るから。
片方の手があなたをつまづかせるなら、切り捨ててしまいなさい。
片方の足があなたをつまづかせるなら、切り捨ててしまいまさい。
失うことを怖れることはない、
身軽になって、神の国へとわたしが成長することを、
辛く、望んでみる。
塩味のような辛さで。