世を愛した

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」
ヨハネによる福音書3章16−21

つまり神はひとり子を与えるほど世を愛したのである。
ヨハネ3、16小林訳(岩波)

小林先生は、
愛したのである、と説明でとることもできるが、
愛したからであると、理由も可とおっしゃる。
新共同訳の、世を愛された、っていうのも、やっぱりいいよね。
Dieu a donné son Fils...
神がそのひとり子を与えた。
この一回性について、どのように反応するか。
彼だけが、神をもっともよく知っており、
彼だけが、神の仲介者である、というこのことばに、
どのように直面するかはまったくの自由である。
ただ、このことばが存在することは、
疑いようがないというだけ。
永遠のいのちを与えるために、ぐしゃぐしゃになりながら世を愛してる神。