行っている

karpos2005-03-18

ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。すると、イエスは言われた。「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか。」ユダヤ人たちは答えた。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒涜したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」そこで、イエスは言われた。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。そして、聖書が廃れることはありえない。それなら、父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒涜している』と言うのか。もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」そこで、ユダヤ人たちはまたイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手を逃れて、去って行かれた。イエスは、再びヨルダンの向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた所に行って、そこに滞在された。多くの人がイエスのもとに来て言った。「ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった。」そこでは、多くの人がイエスを信じた。
ヨハネによる福音書10章31−42

町でピエール・テイヤールに会った。
ちょっと読んでみよう。「神なる中心」。

減退の受動性について言及しながら、どのようにして不成功が、失態が、死が、そして失敗さえもが、神によってより良く鋳なおされるか、また「彼」において変容させられるかを見てきた。この場こそ、すべての一般化される事柄のなかで、またここにある信仰行為の特別な観点からも、我々の側からも、この奇跡を考察できる場なのであり、摂理的な条件なのである。
そう、我々の手のなかに、すべてにおいて、世界が、いのちが(我々の世界が、我々のいのちが)、まるでホスチアのように、まるで神の感化をすべて引き受ける用意が整っているように、置かれている。つまりそれが「受肉したことばの現存」のリアルな姿である。「神秘」はここに成就するだろう。でも一つだけ条件がある。それは、「これ」が「行い」として生成したい、「これ」が「行い」に生成できるということを、我々がきっと「信じるであろう」ということ。つまり、「キリストのからだ」に連なっているということ。――信じるか?
Pierre Teilhard de CHARDIN, Le Milieu Divin, Seuil, 1957,p.157-158

わたしが父の業(わざ)を行っているのであれば、
わたしを信じなくても、その業を信じなさい。
そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、
あなたたちは知り、また悟る。
・・・
手のなかに置かれた小さなパンがすべての出来事を証しする。
すでに行われたこのパンが、パン自身が、
おどろくべきことに、わたしの内で、
その行いと成りたいと望んでいるということを
その行いと成ることができるということを、信ず。